愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(3) 松平記

2021年12月02日 15時30分09秒 | 松平記

松平記p3

以下翻刻
き也。只今此方より申上度候へとも、〇而〇有様に似たり、
其上我等を讒言したる衆皆々御糾明にあわせんも物さ
はがし、いかがハせんと談合す。弥七尤左様の急事ハ御覚
悟肝要の由申て、其用意して陣屋へ帰り行、いかゝせん申
わけやする、又のきやせんと思〇つゝけて居たりしに、其
後、朝に清康の御馬放れけるを、あれとらへよいかにいかにと
大声あけて被仰る。阿部弥七ねみゝに是を聞てすはや父
を御成敗と驚きさはき、村正の二尺七寸の刀をぬき、打に
御後より清康を切申。植村新六郎是を見て走り寄、のがさ
ず弥七を其場にてけさがけに切殺けり御供衆皆々驚き

現代語訳
今、こちらから話したいと思うが、○○のようである。その上、我等を讒言している者たちを糾明することで、事を荒立てたくない。どうしたものかと相談をした。弥七は、このように急な話なので覚悟がいると話し、陣屋に帰り、どうしたものかと思い続けていた。その後の朝、清康の馬が逃げ出し、「あの馬を捕まえよ」と大声を上げているのを、弥七は寝耳に聞き、「あっ、父が成敗されている」と驚き騒ぎ、村正という二尺七寸(81センチ)の刀をぬき打ちに、後ろから清康を切った。植村新六郎が、これを見て走り寄り、のがさずに弥七をその場にて袈裟がけに切り殺した。清康の御供の衆は皆驚き、

コメント
先日行われた安城市歴史博物館のシンポジウムで、歴史学者の村岡幹夫氏は「この事件は岡崎を本拠とする清康が安城の松平家(信定)にすり寄り、宗家を引き継ぐことへの岡崎家臣団の不安が背景にある。それを受けての阿部大蔵のクーデターではないか」と言っていました。それに対して同じく歴史学者の平野明夫氏は「私は異なる見解だが」と「これは天文の内訌の一つで、清康は信定を討つために森山に向かったと考える」と自説を述べられました。(詳しくはそれぞれの説を直接参考してください)