松平記p4
翻刻
参りけれども力なく皆岡崎へ帰陣いたし、十歳に成給ふ
若君仙千代殿に付申内膳殿も一味にて岡崎をとらんも
御譜代衆の心知りがたく、又清康の御父御隠居の御座候
間不叶、只念比ふりに被成、御家中衆をあひ付候はんとた
く之御譜代衆にけいはく(敬白か?)被成候去程に尾州織田殿ハ内
膳と縁者なれば岡崎を責落し内膳殿にまいらせて三河
を手に入べしとて三河へ出張し大樹寺迄に陣を取三河
岡崎衆ハ評諚し七百余人促し伊田郷に陣をとる松平十
郎三郎殿大将分にて二手に分て合戦し随分の侍衆悉討
死、林、青山、植村、高力父子等や織田殿も清康討死の後加様
現代語訳
(清康の死に驚き)集まったが、力を落し、皆岡崎へ帰陣し、十歳になる若君の仙千代(松平広忠、清康の嫡男)に付いた。内膳殿(松平信定)も(謀反の)一味で、岡崎を取ろうとしているが、岡崎の御譜代衆の動きもわからず、また清康の父(松平信忠、松平信定の兄)は隠居しているので、(信定に)かなわず、親しいふりをし、安城松平の衆を引付ておこうと考え、岡崎の御譜代衆に敬白している。そんなとき、尾張の織田殿(信秀)が内膳殿と親戚関係にあるので、岡崎を攻め落とし、内膳殿に味方してもらい、三河を手に入れようと、三河に出陣し、大樹寺まで来た。三河岡崎衆は作戦を考え、七百人余りで井田郷に陣をとった。松平十郎三郎殿(松平康孝、松平清康の弟)を大将として二手にわけて合戦をした。随分の侍衆が悉く討死した。林、青山、植村、高力父子等。織田殿も「清康討死の後、かように
コメント
清康暗殺後の松平家の動きをあらわしているが、主語がはっきりしないことや、文章の終わりがはっきりしないため、よく分かりません。内膳殿(信定)が岡崎をとろうとしていること、清康の父(信忠)は隠居していることなどは分かりますが、家臣を「譜代衆」「御家中衆」と分けて使っているので、どっちかが岡崎衆でどっちかが安城衆ではないかと思われます。譜代衆を岡崎衆、御家中衆を安城衆としてみました。討死をした林、青山、植村、高力は松平の家臣であることは間違いありませんが、誰だかちょっと分かりません。いずれにしても織田信秀と松平清康の時代、西三河は戦乱に明け暮れていた感じがしました。