愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(14) 松平記

2022年02月13日 06時24分01秒 | 松平記

松平記p14

翻刻

一 天文十六年九月廿八日渡り河原と云所にて蔵人方と岡
崎衆一日合戦し、味方破られ、松平外記、松平喜蔵、鳥居源七
討死しける、喜蔵、弥右衛門兄也、鳥居源七ハ彦右衛門兄也
此人々残当り討死ゆへ、廣忠御除被成候、外記をハ鳥居久
兵衛と申者、蔵人方にて討捕申候、久兵衛と外記ハ従弟
にて見知て討とめたる也、青江の刀をぶんどりにしける
が、是ハ外記重代の刀也とて外記子息方へ後に送りける
情有と諸人申ける也
一 鳥居をハ松下清兵衛と申者、蔵人殿衆にて討取申候、是ハ

現代語
こと
一 天文十六年九月二十八日、渡り河原というところにて、蔵人信孝方と岡崎勢が一日合戦した。味方は負け、松平外記(五井松平忠次)、松平喜蔵、鳥居源七(鳥居忠宗)が討死した。松平喜蔵は、松平弥右衛門の兄であり、鳥居源七は鳥居彦右衛門の兄であった。この人々(     )討死なので、松平廣忠は「御除被成候」、蔵人信孝側の鳥居久兵衛なる者が、松平外記忠次を討ち取った。鳥居久兵衛と松平外記忠次は従弟同士で、知り合った仲であったが、討ち取った。(松平外記忠次より)青江の刀を分捕ったが、これは外記に伝わる先祖伝来の刀であるとして松平外記忠次の息子に後で送りつけた。人情があると、皆が言っていた。
一 鳥居を松平蔵人信孝の家臣である松下清兵衛が討ち取った。これは・・・・


コメント

 今回は、文字が読めないところ、意味が分からないところがありました。直に翻刻すると、「此人々残当り討死ゆへ廣忠御除被成候」となります。これで翻刻が正しいかどうかがまず問題です。正しいとして、「残当り討死」とは何か、また廣忠が除いたというのは、何をどこから除いたのか分かりませんでした。
 さて、織田、松平、今川の絡んだ三河での戦いは天文年間にいくつもあり、井田野の戦い、安祥城をめぐる戦い、小豆坂での戦い、岡崎城をめぐる戦い等々、学者によっていつごろ、何回戦われたか、結果はどうだったか、など諸説あり、整理が難しいです。この節では、天文16年9月28日の渡り河原での戦いが描かれています。
松平外記、松平喜蔵、鳥居源七が討死し、廣忠勢は敗北を喫しています。松平外記と鳥居久兵衛に関しては、逸話があるようで、鳥居久兵衛が外記の持っていた名刀を息子に返したということらしいです。この辺は「軍記物」という感じで、面白いところです。
 なお、鳥居久兵衛は、寛政修重諸家譜では鳥居又次郎になっています。どちらの呼び方が正しいのか分かりません。また、討死した鳥居源七と松平外記を討ち取った鳥居久兵衛とどういう関係か分かりません。