愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(35) 松平記

2022年10月28日 16時16分47秒 | 松平記

松平記p35

翻刻
ハ手にたつものなし。急き尾州へ馬を出し、織田信長を誅
伐し、都へ切て上らんとて、永禄三年五月、愛智郡へ発向す。
先たつて沓掛城を攻落し、義元則着陣し、大高城をも攻落
し、鵜殿長助を籠給ふ。然とも此城に兵粮なくして難儀成
し程に、其夜松平元康に申付、兵粮を入らるる。敵陣の間を
通りて兵粮入る事大事也とて、元康、鳥居四郎左衛門、石川
十郎左衛門を物見にこし給ふ。両人申は中々成間鋪候、敵
近所に備たり、押とられハ事無念也と申。松浦八郎五郎見
て来り、いやいや苦しからす、早々入給へ。子細ハ敵味方のは
たを見て、山の上なる敵、山よりおろすへき事成に、次第に
(上り候へハ、合戦をもちたる敵にてハなしと申)

現代語
(そうなので東の方に)は、手向かうものはない。急いで尾張に兵を出し、織田信長を誅伐し、都に攻め上ろうと永禄3年5月、愛智郡に向けて兵を動かした。それに先立ち沓掛城を落し、義元が着陣し、大高城も攻め落とし、鵜殿長介(長照)を入れた。しかしながらこの城には兵粮がなく、難儀をしていたので、その夜松平元康に申し付け、兵粮を入れさせた。敵陣の中を通っての兵糧入れは一大事であるので、元康は鳥居四郎左衛門(忠広)、石川十郎左衛門を物見として派遣した。この二人が言うには、「なかなか難しいことである。敵が近くに見張っていて、兵粮を取られてしまえば残念なことになる」と。(そこへ)松浦八郎五郎が「いやいや大丈夫である。早々に兵粮を入れられよ。詳しく言えば、敵味方の旗を見よ。山の上にいる敵は、(戦う気があれば)山より兵を降ろすであろう。しかし、上に上っている。これは戦う気がある敵とは言えない」と申した。

コメント
いよいよ桶狭間の戦いです。まず、桶狭間の戦いの冒頭に「織田信長を誅伐し、都へ切りて上らん」と今川義元の意図を示しています。現在の歴史家の意見では上洛の意図はなく、砦に囲まれて身動きができない大高、鳴海両城の封鎖解除が目的であろうということになっています。せいぜい清須を落して尾張を手に入れるぐらいがこの闘いの目的だったと言われています。しかし、ここにはっきり「都に切りて上らん」と書かれていることや「信長公記」に都から使用が許されていた輿に載っていたことなど、都を意識した戦いでもあったのではないかと思います。
また、愛智郡に向けてというのも面白いところです。大高は知多郡にありますので、義元の軍を起こした目的地が大高城ではないことが分かります。愛智群なので、おそらく鳴海城だと思います。鳴海を足掛かりにして、熱田そして清須へと軍を進める意図が感じられました。
さらに、沓掛城ですが、はっきりと義元が着陣したとあります。一部の論者に「これは今川軍であることを見間違えたので、義元は沓掛城ではなく、大高城に行った」という事を言う人がいますが、「松平記」では沓掛城説を取っているようです。
つぎに有名な徳川家康の大高城兵糧入れの話です。鳥居四郎左衛門は関ケ原の戦いの前哨戦伏見城の戦いで戦死した鳥居元忠の弟です。石川十郎左衛門は三河一向一揆の時に一揆側に寝返って家康を討とうとした時、娘婿の内藤正成に両ひざを射抜かれたことで有名です。
杉浦八郎五郎は、勝吉と思われます。「松平記」のこの文だけでは何が言いたいのか文意が読み取れませんでした。「寛永重修諸家譜」に勝吉の記事があり、これで、何が言いたいのかやっとわかりました。ただし、この記事では永禄2年のこととし、大高兵糧入れと同時進行で寺部・梅坪の放火を行い、そのすきに兵粮を入れたとあります。寺部の戦いは、「松平記」では永禄元年の戦いとし、大高城兵糧入れの話は出てきません。この「寛政重修諸家譜」の記事が何を元にして書かれたのか知りたいところです。

寛政重修諸家譜「杉浦勝吉」の項