愛知の史跡めぐり

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松平記(38) 松平記

2022年11月09日 14時09分55秒 | 松平記

松平記p38

翻刻
一 義元の御馬廻衆も随分働候間、尾州衆の物頭佐々隼人正、
千秋新四郎、岩室長門守、織田佐馬允、一色なんとと申よき
者、数多其場にて討死也。
一 御先衆に打死致したる衆ハ、三浦左馬助、斉藤掃部助、庵原
右近、同庄次郎、朝比奈主計、西郷内蔵助、富塚修理、松平摂津守、富永
伯耆守、牟札主水、四宮右衛門八、井伊信濃守、松平兵部、温井蔵人、
松平治右衛門、其外六十余人近習一人も不残、其庭にて討死也。
一 諸軍驚き、主のとふらひ軍すへき方角もなく、瀬名、三浦、朝
比奈等、池鯉鮒城皆番手衆明て落行。大高の城にハ松平元
康衆持しか、水野下野守ハ信長衆なれとも、元康と伯父甥

現代語
一 今川義元の御馬廻り衆も随分応戦したので、尾張織田方も部隊長の佐々隼人正、千秋新四郎、岩室長門守、織田左馬允、一色などという立派な武将が、たくさんその場で討死をした。
一 先陣の武将で討死した武将は、三浦左馬助、斎藤掃部助、庵原右近、同庄次郎、朝比奈主計、西郷内蔵助、富塚修理、松平摂津守、冨永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門八、井伊信濃守、松平兵部、温井蔵人、松平治右衛門、その他60余名、近習は一人も残らず、その場にて討死をした。
一 今川軍は驚き、主の弔い合戦をするてだてもなく、瀬名、三浦、朝比奈等、池鯉鮒城のすべての番手衆みな落ちのびていった。大高城には松平元康衆が持ちこたえていた。水野下野守は信長の味方であったが、元康とは伯父、甥の関係であれば、

コメント
御馬廻り衆とは、いわゆる親衛隊で、一般的に腕に覚えのあるものが仕えていたようです。織田方も損失を受けました。佐々、千秋は別動隊の武将たちです。岩室長門守は、「信長公記」に名がありました。信長がこの日の朝、清須城を小姓たった5騎とともに出陣したのですが、その5騎(岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎)のうちの一人でした。しかし、「信長公記」では、ここで岩室は死んでいません。首巻「於久地惣構へ破るゝのこと」に登場し、ここで討死をしてしまいます。「上総介殿御若衆にまいられ候、岩室長門かうかみをつかれて討死なり。隠れなき器用の仁なり。信長御惜しみ大方ならず。」永禄4年(桶狭間の戦いの翌年)6月のことです。織田左馬允については、後に津田盛月と名乗る武将がいます。当然、ここで討死はしていません。文禄2年(1593)に死んだそうです。一色とはだれなのか、分かりません。ということで、織田側の戦死者については、「松平記」の記述は佐々と千秋以外は、はっきりしません。
 今川側の戦死者については、「豊明市史・資料編補2・桶狭間の戦い」に詳しく記載されていましたので、転記します。(p50)

桶狭間の戦いにおける戦死者

驍士(ぎょうし、強い武将の意味)583人、雑兵2500人としています。織田側は、990人余りとの説もあります(ウィキペディア)
今川軍は有力武将が討たれ、総崩れに近い形で東へと逃げ落ちて行きます。逃げ落ちる武将の中に瀬名、三浦、朝比奈の名前が挙がっています。具体的に誰なのか分かりません。