
松平記p5
翻刻
に譜代衆骨おりて中〱あざむく事不成、和談にして帰陣
被成候。其間内膳殿岡崎へ来り御隠居をたより岡崎知行
悉横領被成御譜代衆を引付給ふ。仙千代殿を内々にて追
出し奉る。阿部大蔵ハ世忰気迷主君を討奉る共、我等は御
免をかふぶり若君に付奉るべしとて内膳殿の下知にし
たがハず十三に成給ふ仙千代殿御供申伊勢国へ浪人被
成候ニ付奉る、神辺に御越年有、其後御元服有て松平次郎
三郎廣忠と申奉る、吉良東條持廣の御烏帽子に成給ふ
故に廣忠と申奉ると聞えし、持廣ハ清康の妹婿にて御座
候間、仙千代殿をいとをしみ奉り、色々御肝煎被成駿河今
現代語訳
(清康が討死した後、このように)譜代の衆が苦労して裏切ることもなく、織田信秀と和談して岡崎に帰陣した。その間に内膳殿は岡崎に来て、御隠居(松平信忠)をたよって岡崎の知行地を悉く横領し、岡崎の譜代衆を味方に引き寄せた。そして仙千代(廣忠)を内々に追い出してしまった。阿部大蔵は息子が気を迷って、主君を討ってしまったが、我等は若君に付かなければならないとし、内膳殿の命令には従ず、13になる仙千代殿の御供をして、伊勢国神辺に行き、年を越した。その後元服し、松平次郎三郎廣忠と名乗られた。吉良東條持廣が烏帽子親となった。それで廣忠(廣の字を貰って)というそうだ。吉良東條持廣は松平清康の娘婿であったので、仙千代殿をいとおしみ、いろいろと世話を焼き、駿河今川殿に・・・・・
コメント
織田信秀は、清康が死んだことを受けて三河に攻め込んできます。大樹寺に陣を設けたというので、岡崎にまで進出していたわけです。そしてかなりの犠牲者を出したようです。織田信秀は、ここで一気に攻め込まず、和談に応じます。どうも内膳(松平信定)と内通していたように思われて仕方がありません。この織田攻めの間に、内膳は岡崎を乗っ取り、仙千代(廣忠)を岡崎から追い出してしまうからです。
もう一つ不可解なのは、阿部大蔵です。彼の息子が主君である松平清康を殺害したわけです。例えそれが誤っての殺人であっても、重大な罪に問われるべきものと思います。仙千代の側近はもとより、内膳にしてもこの阿部大蔵を謀反人の親として弾劾することが当然あってしかるべきです。しかし、内膳が清康殺しの親として阿部大蔵を咎めた、責めたという話は出てきません。また、仙千代の側近からも出てきません。そればかりか、この阿部大蔵が、まるで仙千代の後見人であるかのように、岡崎追放後に付き添っています。一説には、阿部大蔵が責任を感じて自害しようとしたところを仙千代が止めたので、それを御恩と感じて阿部大蔵が仙千代につくすことを決意したとか。仙千代はどれだけお人よしか、というか自分の親、松平家を滅ぼした犯罪人の親の自害を止めるということはあり得ないと思います。江戸時代の儒教、忠君の臭いが感じられます。主君たるものはかくあるべし、臣たるものはかくあるべしというものが、この「松平記」にも感じられる部分です。
廣忠の名前が吉良東條持廣から来ているということを知りました。清康から一字も受け継いでいないので、不思議に思っていましたが、岡崎を追われた状況での元服だったので、こういうこともあるのだと思いました。