浦里公園の銅像
名古屋市緑区の浦里公園というところに銅像があります。
雉本朗造(きじもと ときぞう)という人です。
雉本朗造は、大正時代にこの地に起きた「鳴海小作争議」において小作人の側に立って小作人を裁判で支援した人です。
鳴海小作争議を支援
鳴海小作争議は大正6年に起こり、大正12年に解決しましたが、雉本朗造は、その1年前に謎の死を遂げました。「たまたま大正11年3月13日九州旅行方面に旅行の帰路、瀬戸内海で船上より行方不明となり、不慮の死をとげられた」(「緑区誌」2010年)
争議に関わった小作人たちが、雉本朗造の死を偲んで、昭和5年にこの銅像を建立しました。(石堀山)そして昭和48年現在の浦里公園に移されたそうです。
公園に立てられている「雉本博士 銅像後援会」の看板
名古屋市緑区の浦里公園というところに銅像があります。
雉本朗造(きじもと ときぞう)という人です。
雉本朗造は、大正時代にこの地に起きた「鳴海小作争議」において小作人の側に立って小作人を裁判で支援した人です。
鳴海小作争議を支援
鳴海小作争議は大正6年に起こり、大正12年に解決しましたが、雉本朗造は、その1年前に謎の死を遂げました。「たまたま大正11年3月13日九州旅行方面に旅行の帰路、瀬戸内海で船上より行方不明となり、不慮の死をとげられた」(「緑区誌」2010年)
争議に関わった小作人たちが、雉本朗造の死を偲んで、昭和5年にこの銅像を建立しました。(石堀山)そして昭和48年現在の浦里公園に移されたそうです。
公園に立てられている「雉本博士 銅像後援会」の看板
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