赤塚はどこか
「信長公記」首巻に書かれている「三の山赤塚合戦の事」。信長の父織田信秀の時代から続く今川氏と織田氏の抗争。織田信秀が病気で亡くなると、織田の形勢不利と見たのか、家臣の鳴海城主山口左馬助教継、子息九郎二郎教吉が謀反を起こします。そして、鳴海城のほか、笠寺に砦を築き、中村にも城を造りました。
そこで、織田信長はこれを討つべく「中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり」陣を構えました。一方鳴海城の山口九郎二郎教吉は、「三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。(中略)赤塚へかけ出し候。先手あし軽、清水又十郎、(中略)是れらを先として、赤塚へ移り候。」信長は、「三の山より此のよしを御覧じ、則ちあか塚へ御人数よせられ候。」とあります。赤塚とはどこなのでしょうか。
赤塚の戦いの図(地理院地図より)
(1)「信長公記」の通り三の山、鳴海城からそれぞれ1.5km離れた場所を探すとちょうど緑高校の辺りになります。いくら何でも両方の陣から遠すぎますし、赤塚という地名も残っていません。(地図の①)
(2)では、赤塚という地名はどこに残っているかといえば、現在は新海池のすぐ西にあります。新海池は1634年に造られたそうなので(ウィキペディア)、新海池の辺りは土地が低いところだったのかも知れません。しかし、この場所は、「信長公記」の言う赤塚とは違っています。それに、やはり両陣営がわざわざ東の方に戦闘場所を移動させています。やや不自然です。(地図の②)
現在の赤塚の地に残る赤塚古墳(ネットではこの辺りが赤塚古戦場としています)
(3)これは偶然ですが、「天保の村絵図緑区域解読版」というのを購入したのを思い出し、天保の頃の緑区の村の様子を見ると、ちょうど成海神社の北隣に「赤塚」という地名が書かれています。
天保村絵図での「赤塚」の位置
現在は「三高根」(さんたかね)という地名です。ここだと三の山からも鳴海城からも割と直線的に来ることができます。ただ、現地に行ってみると結構高台になっています。「三高根」は「三太ヶ根」で三太の尾根という意味だそうです。しかし、「三高根」の高台は狭く、西の方は低くなっています。その辺が戦いの地ではないでしょうか。
現在の三高根の様子(画像の奥、右が高くなっています。撮影している地点から後ろは低くなっていきます)
これを地理院地図の陰影起伏図で表すと以下のようになります。三の山は海抜36.1mで、そこから鳴海城が見えたものと思います。また、信長は山口九郎二郎教吉が赤塚に移動したのを見ていたと言います。したがって赤塚は三の山より低い土地になります。おそらく成海神社の北西から西にかけて戦場になったと推測されます。
陰影起伏図(地理院地図より)
三の山
三の山の入口(狐がお出迎えです)
三の山から西北を見る(名古屋駅の高層ビル群が見えました)
三の山から南を見る(遠くに低く見えるのは大高緑地、写真ではただの地平線ですが。)
東と北は木が茂っていて現在は眺望がよくありませんが、おそらく当時はよく見えて、鳴海城や赤塚の様子が信長から手に取るように見えたのだと思います。
「信長公記」首巻に書かれている「三の山赤塚合戦の事」。信長の父織田信秀の時代から続く今川氏と織田氏の抗争。織田信秀が病気で亡くなると、織田の形勢不利と見たのか、家臣の鳴海城主山口左馬助教継、子息九郎二郎教吉が謀反を起こします。そして、鳴海城のほか、笠寺に砦を築き、中村にも城を造りました。
そこで、織田信長はこれを討つべく「中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり」陣を構えました。一方鳴海城の山口九郎二郎教吉は、「三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。(中略)赤塚へかけ出し候。先手あし軽、清水又十郎、(中略)是れらを先として、赤塚へ移り候。」信長は、「三の山より此のよしを御覧じ、則ちあか塚へ御人数よせられ候。」とあります。赤塚とはどこなのでしょうか。
赤塚の戦いの図(地理院地図より)
(1)「信長公記」の通り三の山、鳴海城からそれぞれ1.5km離れた場所を探すとちょうど緑高校の辺りになります。いくら何でも両方の陣から遠すぎますし、赤塚という地名も残っていません。(地図の①)
(2)では、赤塚という地名はどこに残っているかといえば、現在は新海池のすぐ西にあります。新海池は1634年に造られたそうなので(ウィキペディア)、新海池の辺りは土地が低いところだったのかも知れません。しかし、この場所は、「信長公記」の言う赤塚とは違っています。それに、やはり両陣営がわざわざ東の方に戦闘場所を移動させています。やや不自然です。(地図の②)
現在の赤塚の地に残る赤塚古墳(ネットではこの辺りが赤塚古戦場としています)
(3)これは偶然ですが、「天保の村絵図緑区域解読版」というのを購入したのを思い出し、天保の頃の緑区の村の様子を見ると、ちょうど成海神社の北隣に「赤塚」という地名が書かれています。
天保村絵図での「赤塚」の位置
現在は「三高根」(さんたかね)という地名です。ここだと三の山からも鳴海城からも割と直線的に来ることができます。ただ、現地に行ってみると結構高台になっています。「三高根」は「三太ヶ根」で三太の尾根という意味だそうです。しかし、「三高根」の高台は狭く、西の方は低くなっています。その辺が戦いの地ではないでしょうか。
現在の三高根の様子(画像の奥、右が高くなっています。撮影している地点から後ろは低くなっていきます)
これを地理院地図の陰影起伏図で表すと以下のようになります。三の山は海抜36.1mで、そこから鳴海城が見えたものと思います。また、信長は山口九郎二郎教吉が赤塚に移動したのを見ていたと言います。したがって赤塚は三の山より低い土地になります。おそらく成海神社の北西から西にかけて戦場になったと推測されます。
陰影起伏図(地理院地図より)
三の山
三の山の入口(狐がお出迎えです)
三の山から西北を見る(名古屋駅の高層ビル群が見えました)
三の山から南を見る(遠くに低く見えるのは大高緑地、写真ではただの地平線ですが。)
東と北は木が茂っていて現在は眺望がよくありませんが、おそらく当時はよく見えて、鳴海城や赤塚の様子が信長から手に取るように見えたのだと思います。
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