愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

飯野八兵衛を祀る神社  豊田市

2015年02月14日 06時58分22秒 | 豊田市
先日小原の方に用がありましたので、その途中の飯野というところによりました。飯野は、以前お伝えした豊田市舞木町「永田清左衛門」を首謀者の一人とする「飯野八兵衛事件」のあった場所です。

飯野秋葉神社にある飯野八兵衛の石碑

飯野八兵衛は、宝暦2年(1752年)に百姓の窮状と挙母藩の悪政を訴えるために挙母藩江戸屋敷に陳情を起こした百姓一揆の中心人物です。
飯野八兵衛を祀っている秋葉神社の案内板には、この事件について次のように記しています。


 八兵衛さんは、享保11年(西暦1726年)7月3日、三州飯野村に生まれた。母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った。重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わった。
その頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だった。けれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した。彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1,241人の中より305人を引き連れて、宝暦2年(西暦1752年)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった。
 江戸に於ける彼の活動は凄まじかった。恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げその上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れた。かくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた。最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についた。この時27才、まさに巨星落ちるの感があった。
 犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である。飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである。
 昭和59年12月1日 長居紀章 撰
            飯野区  建立


この石碑の文は長居紀章氏ですが、かれはこの飯野八兵衛を格調高く、かつ分かりやすい小説に著していました。それが「義人 飯野八兵衛」という本です。


なかなか本屋では見つからなくて、ネットで検索したところ刈谷の古本屋にあることが分かり購入することが出来ました。一読を勧めたいところですが、なかなかこの本にありつけないのが残念です。

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