「日本城郭体系」9を読んでいましたら、まだ行っていない田代城がありました。所在地は額田郡です。ネットで田代城を調べると、豊田市下山地区の田代城が出てきました。比べると、豊田市の方に遺構がよく残っていそうなので、豊田市の田代城に行くことにしました。
田代城全景
この城の詳しい情報は、あまり分かっていないようなので、現地案内板の文を掲載します。
現地案内板
田代城跡
所在地 下山村大字田代字入北切
遺構 曲輪、土塁、堀切
規模 総面積 約3740㎡、東西約170m、南北約60m
田代城は、通称「京ヶ峰」と呼ぶ山の西麓にあって、近くの大沼城とともに足助七城のひとつに数えられていました。
遺構は、本曲輪・曲輪・堀切などが、山の斜面に沿って階段状に分布していますが、古い田代城城絵図によると、これらは居館跡で、戦時の拠点は京ヶ峰の山頂にあったことがわかります。また、居館の南西300mの尾根の先端には、出曲輪の跡があります。
城の歴史に関する詳細は不明ですが、「三河国二葉松」には、城主として森外記、松平主税或甚五左衛門の名が挙げられています。
この田代城も、大沼城と同様に天正2年4月(1574)(元亀2年(1571)とする説もある)、甲斐の武田軍に攻め落とされました。
また、それ以前の天文・永禄年間(1550年ごろ)のこととして、「東照軍艦」には、駿河の今川氏が、竹千代(家康)などを田代城へ出兵させ、松平道久を攻め降したことが記されています。
なお、付近には「お城下」「お屋敷」など、田代城に関連のある地名が今も残っています。
平成4年12月26日 下山村教育委員会
田代城の案内板から現地まで、道案内の標識があり、迷わずに城まで行くことができました。
田代城イメージ図
さて、現地に行くと、先ず立派な堀切が目に飛び込んできました。イメージ図の中央部の堀切です。
一番西の堀切
人の身長より深く、2mぐらいの深さがあったと思われます。
これはすごいと思って、堀切を降りてさらに奥の方に行くと、二つ目の堀切がありました。イメージ図の真ん中の堀切です。
真ん中の堀切
さらに奥に行くと、3つ目の堀切がありました。
3つ目の堀切
大変見ごたえのある堀切でした。堀切の間はおそらく曲輪で、一番西の曲輪には土塁のような跡も見受けられました。
この田代城には、東に300mほど行くと出曲輪の跡があります。出曲輪は、東側に土塁の跡が残っていました。
東側の土塁跡
田代城全景
この城の詳しい情報は、あまり分かっていないようなので、現地案内板の文を掲載します。
現地案内板
田代城跡
所在地 下山村大字田代字入北切
遺構 曲輪、土塁、堀切
規模 総面積 約3740㎡、東西約170m、南北約60m
田代城は、通称「京ヶ峰」と呼ぶ山の西麓にあって、近くの大沼城とともに足助七城のひとつに数えられていました。
遺構は、本曲輪・曲輪・堀切などが、山の斜面に沿って階段状に分布していますが、古い田代城城絵図によると、これらは居館跡で、戦時の拠点は京ヶ峰の山頂にあったことがわかります。また、居館の南西300mの尾根の先端には、出曲輪の跡があります。
城の歴史に関する詳細は不明ですが、「三河国二葉松」には、城主として森外記、松平主税或甚五左衛門の名が挙げられています。
この田代城も、大沼城と同様に天正2年4月(1574)(元亀2年(1571)とする説もある)、甲斐の武田軍に攻め落とされました。
また、それ以前の天文・永禄年間(1550年ごろ)のこととして、「東照軍艦」には、駿河の今川氏が、竹千代(家康)などを田代城へ出兵させ、松平道久を攻め降したことが記されています。
なお、付近には「お城下」「お屋敷」など、田代城に関連のある地名が今も残っています。
平成4年12月26日 下山村教育委員会
田代城の案内板から現地まで、道案内の標識があり、迷わずに城まで行くことができました。
田代城イメージ図
さて、現地に行くと、先ず立派な堀切が目に飛び込んできました。イメージ図の中央部の堀切です。
一番西の堀切
人の身長より深く、2mぐらいの深さがあったと思われます。
これはすごいと思って、堀切を降りてさらに奥の方に行くと、二つ目の堀切がありました。イメージ図の真ん中の堀切です。
真ん中の堀切
さらに奥に行くと、3つ目の堀切がありました。
3つ目の堀切
大変見ごたえのある堀切でした。堀切の間はおそらく曲輪で、一番西の曲輪には土塁のような跡も見受けられました。
この田代城には、東に300mほど行くと出曲輪の跡があります。出曲輪は、東側に土塁の跡が残っていました。
東側の土塁跡
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