愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

武節(ぶせつ)城址 豊田市(稲武地区)

2014年11月11日 18時55分23秒 | 豊田市
旧稲武町とは
 所用で豊田市稲武地区に行きましたので、ついでに大きな道沿いにあった山城を訪れました。稲武地区は、飯田街道(国道23号線)と恵那浜松線(国道257号線)が交差する交通の要衝として発展した町です。1940年(昭和15年)に稲橋村と武節村が合併し両方の名前の頭文字をとって、稲武としたそうです。

武節城

 訪れた山城は武節城といいます。現地案内板によれば、永正年間(1504年~1521年)に田峯城主菅沼菅沼定信によって築かれ、天正18年(1590年)最後の城主奥平信昌が家康に従って関東に転封になり廃城となったそうです。
 信州と美濃の国境にあり、三河の最前線の基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、武田、徳川にとって重要な城だったようです。

奥平信昌
 奥平信昌は、先日記事にした長篠城を守っていた武将です。もともと奥平氏は今川氏に帰属していましたが、桶狭間の戦いで今川氏の勢いが後退すると家康につくようになりました。しかし、武田信玄が三河に侵攻してくると武田氏に服しました。
 しかし、家康の調略によって家康に付くようになりました。それを知った武田勝頼は奥平の人質を皆殺しにしたそうです。
 そして、あの長篠城の攻防になるわけです。長篠城を守りきった奥平信昌は家康から武節城をもらい、武節城最後の城主となったわけです。

武節城に登る

武節城縄張り図(現地案内板)

大きな空掘りが
 下を走る153号線の北側、南側両方から登れるようになっていました。私は南側のほうから登りました。途中外曲輪が見え、おおきな空掘りがありました。


三日市場城の空堀と似ている
 外曲輪と本丸の間に大きく横たわる空堀、私は三日市場城を思い出しました。三日市場城も曲輪Ⅰと曲輪Ⅳの間に大きな空堀がありました。そして、曲輪Ⅳに土塁があり、なぜ同じ城なのに、曲輪Ⅰに対して土塁があるのか疑問とされていました。
 今回の武節城は、本丸側に物見櫓がそびえていました。

 この写真の石碑は本丸にあった「武節城址」「武節城の戦没者供養の碑」ですが、その後が物見櫓へ続く土塁になっています。土塁といってもけっこう高くなっています。その後に大きな空掘りがあり、その後に外曲輪という位置関係になっています。

大きな土塁を上りきると「物見櫓」「狼煙台」になります。今は神社になっています。

 推測するに、この空堀は外曲輪への守りではなく、外曲輪が落ちたときのための空堀ではないだろうかと。三日市場城の空堀も曲輪Ⅰが落ちても曲輪Ⅳで守るために間に大きな空堀があったのではないかなと。

本丸跡はきれいな紅葉
 本丸に上がると、きれいな紅葉が待っていました。

 
 本丸からは、稲武(武節町)の町が一望に見渡せました。飯田街道、恵那浜松線にしっかり睨みを利かせることができます。


 北の方に降りていくと、二の丸、三の丸がありました。

二の丸跡


三の丸跡

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
綺麗 ()
2014-11-23 12:09:04
稲府町の紅葉はきれいですねー!
私も行きたいです。
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紅葉を (midorishako)
2014-11-23 12:41:40
さ さん
コメントありがとうございます。

ぜひ紅葉を見に行きましょう。
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