愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

緒川城 東浦町

2014年02月16日 07時29分15秒 | 東浦町
緒川城跡は分かりにくかった
 東浦町の入海貝塚を見た後に、緒川城を訪れました。住宅地の中にあり、なかなか見つけるのが、困難でした。しかし、学校給食センターというところに看板があり、ようやく場所が分かりました。でも、この看板が分かりにくかったです。

グーグル、ストリートビューから

緒川城土塁跡
 この看板の地図にそって、ようやく緒川城にたどり着きました。

緒川城跡は、児童公園にありました。公園の北側に土塁の跡が残っていました。古地図によると以下のようです。

現地案内板にあった古地図

 城のほとんどは、住宅地となっていて、遺構は残っていません。ただ地名として、「古城」「羽城」「屋敷参区」などが残っているようです。

史跡全景写真

緒川城主は水野氏
 さて案内板によると、この緒川城の城主は水野氏のようです。水野氏といえば、三河一向一揆で家康側につき、活躍した水野藤十郎忠重、水野太郎作正重がいます。(松平記)また、水野下野守信元は、佐々木上宮寺に戦の準備をして陣中見舞いに来ています。(三河物語)村岡幹生氏によれば、この陣中見舞いで、和議の勧告をしているのではないかと言っています。

水野忠政は中興の祖
 緒川城水野氏と三河一向一揆の水野氏はどんな関係なのか調べてみました。
 まず緒川城関係の4代は、水野貞守、賢正、清忠、忠政、信元と続いた(Wikipedia)、とあります。
 この4代目水野忠政が水野氏中興の祖といわれ、三河一向一揆で活躍した水野下野守信元、水野藤十郎忠重の父親なのです。

水野氏から家康の母親が
 また、水野忠政は、徳川家康の母親である於大の父親でもあります。(Wikipedia)

於大出生の地の石碑がありました

 水野太郎作正重は、水野藤十郎忠重と相婿であると、松平記で紹介しています。ただそれ以上のことは分かりません。

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