愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

東広瀬城、西広瀬城 豊田市

2015年04月26日 10時15分36秒 | 豊田市

西広瀬城全景

空は青空。気温は暑いくらい。ひさしぶりに史跡めぐりに行きました。豊田の西広瀬城址、東広瀬城址です。西と東に分かれているが、元は同じだったんではないかと、漠然と思っていました。学校としても東広瀬小学校と西広瀬小学校があるのですが、実は昨年東広瀬小学校に行く機会があり、そこで校長先生から、こんな話を聞いたのです。「東広瀬と西広瀬は、じつは歴史的に仲がよくないんですよ。西広瀬は昔、織田の領地で、東広瀬は松平の領地だったんです。だからお互いにいがみ合うところがあって、戦前は川をはさんで、子ども同士で石の投げ合いなんかもあったようですよ。」と教えていただきました。


豊田市東広瀬小学校(公式ホームページより)




両城は、矢作川をはさんで約500メートル、歩いても5分ぐらいの距離しか離れていません。それなのに、敵同士のようにいがみ合っていたのは、なんとも不幸なことだと思わずにはいられませんでした。


さて、はじめに西広瀬城址を見ました。

西広瀬城登城口


西広瀬城案内板


西広瀬城縄張り図(愛知の山城ベスト50より)

登城口から少し上ると、平坦なところに出ました。図のBの場所です。これは、図の左側の山から攻められたときの防御だそうです。しかし、私には曲輪に見えてしまいました。


堀り切り

図の右側から曲輪Ⅰ、曲輪Ⅱ、曲輪Ⅲなどがあるのですが、愛知の山城ベスト50で、ここから先は私有地とありましたので、遠慮しました。

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2 コメント

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Unknown (城歩きマン)
2015-04-30 09:06:37
久し振りのブログアップですね。元気が戻って何よりです。

さて、西広瀬城と東広瀬城ですか。川を挟んで子供が石の投げ合い…。昔の自分たちの頃が想い出されます。

これって、きっと真実だと思います――。
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名前だけで判断してはいけない (midorishako)
2015-05-01 23:59:09
城歩きマンさん
コメントありがとうございます。

実はパソコンもいかれてしまい、winXPからwin7に変えたので、その移行もたいへんでした。

さて、西広瀬と東広瀬ですが、豊田市は学校で言うと、西保見小、東保見小、若林西小、若林東小など西東に分かれている学校があり、もとはひとつの学校だったので、安易に広瀬も元はひとつかと思っていたのです。しかし、歴史をさかのぼると戦国時代に西と東の区別があったことがわかり、驚いたしだいです。
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