
松平記p27
翻刻
一 去程に竹千代殿御成人の間、今川殿御前にて元服被成義
元一字を付被申、松平次郎三郎元信と申、弘治二年正月義
元の御妹婿に関口刑部少輔殿と申て今川御一家御座候、
其婿に元信を被仰付、義元の姪婿に御成被成候、御官途有
松平蔵人元康と御改名被成、清康の康の字を御付被成候、
右御元服の後、御祝言打続、御祝目出度とて御譜代衆より
御祝義御礼被申上、三河柳原と申人嵐鹿毛と申御馬進上
申候、此馬其比無双の逸物にて今川殿御馬にて京公方へ
進上被申候、殊更公方御満足にて松平蔵人殿へ御自筆の
御書被下〇、御腰物拝領被成候也
現代語
一 さて、竹千代殿成人なされ、今川殿の御前で元服をされ、義元の一字を付け申されて、松平次郎三郎元信と申された。弘治2年正月、義元の妹婿関口刑部少輔と申今川御一家の婿に元信をと義元が仰せ付けられ、元信は義元の姪婿になられた。官途もあり、松平蔵人元康と御改名なられた。清康の康の字を付けられた。この元服にあたっては祝言がうち続いた。「めでたきことだ」と譜代衆より祝儀をうけ、三河柳原と申す人より馬を進上された。その馬は無双の逸物の馬で、今川殿が京の将軍に進上された。将軍は特に満足されて、松平蔵人に直筆の書と刀を下された。
コメント
徳川家康元服、改名の話です。元服して元信と名乗ったのは、天文24年(1555)のようです。(ウィキペディア)弘治2年は1556年ですので、翌年に後の築山殿(瀬名姫)と結婚し、名前を元康と変えたようです。官途は蔵人。しかし、これには不思議な点があります。蔵人は、今川を裏切り織田方に走った松平信孝の官途です。信康は瀬名姫と結婚して今川家の親戚筋になったのに、どうして松平信孝の官途を名乗ったのか、分かりません。
難語

一番最後の行です。
まさに難字ですね。
最所は「昇」下だし昇られと読んだが、左上が草冠っぽい。さらにこんな文章はありえない。
で、これは「幷」(ならびに)ではないか?と思いました
自信はありませんが…😥
いつもありがとうございます。
たしかに「并」と読めますね。
助かります。