愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

織田信興自害の記録 信長公記 巻3

2014年04月13日 08時35分46秒 | 歴史史料
 織田信興が古木江城で自害したことについて、信長公記に記録があります。

 信長公の御舎弟織田彦七<1>、尾州の内こきゑ村に足懸かり拵(こしら)へ、御居城のところに、志賀御陣に御手塞ぎの様体見及び申し、長島より一揆蜂起せしめ、取り懸かり、日を逐(お)つて、攻め申し候。既に城内へ攻め込みしなり。一揆の手にかかり候ては御無念とおぼしめし、御天主へ御上り候て、霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり。

<1> 織田彦七 織田信興のこと。織田信興は、織田信秀の七男。

長島一向一揆は全国的な戦いの一環
 この記録で、気になるところは、一揆勢が「信長が志賀(滋賀)で戦っていて、手一杯であること」を「見及び申し」といっているところです。一揆が一地方の蜂起ではなく、大坂本願寺が全国的な状況を見ながら、一揆に対して指示をしていたと見受けられます。

天主という言葉
 さらに、信興が一揆の手にかかって死ぬのは無念だと、「御天主」に上って自害したというところの「御天主」という言葉です。
 私は、以前城というものは天守閣があって、石垣があるものだと思い込んでいたので、以前なら見過ごしていたところですが、天主という言葉は、一般的には織田信長が天正7年(1579年)に造った安土城の天主からと言われているそうです。
 信興が自害したのは元亀元年(1570年)11月21日ということなので、この天主という言葉はまだ当時は使われていないと考えられます。つまり、信長公記が天正7年以降の成立であることが分かるということです。太田和泉(信長公記作者)が当時(江戸初期)の言葉を使って表記したのでしょう。

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