柴田勝家生誕の地
下社城は、柴田勝家の生まれた城です。現在は、明徳寺という真宗高田派のお寺です。

明徳寺
案内板によると、享禄3年(1530)に生まれ、幼名を柴田権六と言ったそうです。「信長公記」でもはじめのうちは柴田権六として登場しています。

柴田勝家生誕の石碑(左側の黒っぽい石です)
眺望にすぐれた高台に立つ城
この寺は高台にあり、なるほど城として考えると辺りを見下ろせ、視界も東をのぞいて3方に開けています。
寺の境内から南の方向を眺める
寺の西側は切り立った壁になっていて、恐らく城のときには切岸か石垣だったとそうぞされます。お寺の西横に公園がありました。これは昔曲輪だったのではないかと想像しました。
柴田さんが多い
こんな高台にあったとは知らなかったと、感心して帰ろうとして、ふと家の表札を見ると「柴田」です。

明徳寺近くの柴田さん
きっと柴田勝家の末裔に違いないと思いました。気になったので、まわりをぐるっと調べましたら、なんと柴田さんが5軒ほども寺の周囲にありました。これは、以前寺の敷地がもっと広くて、柴田さんが分家をした時に、土地を分けてもらったので、まわりに柴田さんが多いのではないだろうかと想像しました。だから、おそらく柴田さんはみんな親せきだろうと思いました。
下社城は、柴田勝家の生まれた城です。現在は、明徳寺という真宗高田派のお寺です。

明徳寺
案内板によると、享禄3年(1530)に生まれ、幼名を柴田権六と言ったそうです。「信長公記」でもはじめのうちは柴田権六として登場しています。

柴田勝家生誕の石碑(左側の黒っぽい石です)
眺望にすぐれた高台に立つ城
この寺は高台にあり、なるほど城として考えると辺りを見下ろせ、視界も東をのぞいて3方に開けています。

寺の境内から南の方向を眺める
寺の西側は切り立った壁になっていて、恐らく城のときには切岸か石垣だったとそうぞされます。お寺の西横に公園がありました。これは昔曲輪だったのではないかと想像しました。
柴田さんが多い
こんな高台にあったとは知らなかったと、感心して帰ろうとして、ふと家の表札を見ると「柴田」です。

明徳寺近くの柴田さん
きっと柴田勝家の末裔に違いないと思いました。気になったので、まわりをぐるっと調べましたら、なんと柴田さんが5軒ほども寺の周囲にありました。これは、以前寺の敷地がもっと広くて、柴田さんが分家をした時に、土地を分けてもらったので、まわりに柴田さんが多いのではないだろうかと想像しました。だから、おそらく柴田さんはみんな親せきだろうと思いました。
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