大沼城址は豊田市(旧下山村地域)にあります。けっこう遠かったです。連休でしたが、意外に道は空いていました。
大沼城とは
大沼城は、文明年間(戦国時代初期)に、木村東見入道安信が築いたとされる山城で足助の真弓山城(足助城)や近くの田代城などとともに、足助七城の一つに数えられていました。
(中略)
初代城主木村安信は、信仰あつく城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、天文2年(1533)に死去しました。2代新九郎信元のとき、天正2年(1574)4月―元亀2年(1571)とする説もある―大沼城は甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信元も討ち死にしました。
そして、天正3年(1573)には、信元の養子松平親清(大給城主松平乗元の二男)が、大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を八沢山洞樹院と改めて、菩提寺としました。親清の没後天正11年(1583)摘子の近正が跡を継ぎ、徳川家康の旗下で軍功を立てました。そして、天正18年(1590)家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に5000石を賜って三河を離れました。大沼城はその頃廃城になったと考えられます。
下山村教育委員会(現地案内板)

大沼城の概要図。大沼城は本曲輪を中心に南方向と東方向に、かぎ状に曲輪がのびています。
三の丸

入り口から少し登ると、三の丸がありました。
腰曲輪

これは、二の曲輪と三の丸の間の帯曲輪です。
二の曲輪

二の曲輪
土塁に思う

本曲輪南西側の下の帯曲輪。この帯曲輪の北端に土塁がありました。この土塁は、「愛知の山城ベスト50」で「昇降路を兼ねていたとも考えられる」解説していました。しかし、この土塁と本曲輪の高さの差は、2メートル以上あり、ここから本曲輪に登るのはけっこう辛いものがありました。(土塁が風雨で低くなったのかもしれませんが)また、この土塁の外側(北面)は、切り立った崖になっていて、ここから敵が容易に侵入できないと思いました。この土塁は、何のために造られたのか、不思議に思いました。
本曲輪

本曲輪。標識がありました。
ヘビとの遭遇
さて、見所の一つ本曲輪と東側の曲輪群の間の堀切を見ようと足を踏み入れようとした、そのときヘビに遭遇してしまいました。

まだら模様があり、マムシかと思いましたが、頭が意外と小さいので、マムシではなく、ヤマカカシの仲間ではないかと思いました。いずれにしても、ヘビは苦手なので、竹でしっしと追い払って、先へ行くことにしました。今日は、最高予想気温が28℃、もう夏の気温です。これから山城を探索すれば、当然のようにヘビ、ハチ、ヒルの類が襲ってきます。5月の連休が山城訪問の限界だとつくづく思いました。
堀切

本曲輪北側の堀切

堀切から見た本曲輪。堀切が深いことが分かります。
東側曲輪群

東曲輪群の中心の曲輪には、こんな看板がありました。明治時代に、八沢で不審火が続き、美濃串原の「お犬さま」を祀ったところ、おさまったとのことです。

お犬さまの祠
大沼城とは
大沼城は、文明年間(戦国時代初期)に、木村東見入道安信が築いたとされる山城で足助の真弓山城(足助城)や近くの田代城などとともに、足助七城の一つに数えられていました。
(中略)
初代城主木村安信は、信仰あつく城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、天文2年(1533)に死去しました。2代新九郎信元のとき、天正2年(1574)4月―元亀2年(1571)とする説もある―大沼城は甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信元も討ち死にしました。
そして、天正3年(1573)には、信元の養子松平親清(大給城主松平乗元の二男)が、大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を八沢山洞樹院と改めて、菩提寺としました。親清の没後天正11年(1583)摘子の近正が跡を継ぎ、徳川家康の旗下で軍功を立てました。そして、天正18年(1590)家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に5000石を賜って三河を離れました。大沼城はその頃廃城になったと考えられます。
下山村教育委員会(現地案内板)

大沼城の概要図。大沼城は本曲輪を中心に南方向と東方向に、かぎ状に曲輪がのびています。
三の丸

入り口から少し登ると、三の丸がありました。
腰曲輪

これは、二の曲輪と三の丸の間の帯曲輪です。
二の曲輪

二の曲輪
土塁に思う

本曲輪南西側の下の帯曲輪。この帯曲輪の北端に土塁がありました。この土塁は、「愛知の山城ベスト50」で「昇降路を兼ねていたとも考えられる」解説していました。しかし、この土塁と本曲輪の高さの差は、2メートル以上あり、ここから本曲輪に登るのはけっこう辛いものがありました。(土塁が風雨で低くなったのかもしれませんが)また、この土塁の外側(北面)は、切り立った崖になっていて、ここから敵が容易に侵入できないと思いました。この土塁は、何のために造られたのか、不思議に思いました。
本曲輪

本曲輪。標識がありました。
ヘビとの遭遇
さて、見所の一つ本曲輪と東側の曲輪群の間の堀切を見ようと足を踏み入れようとした、そのときヘビに遭遇してしまいました。

まだら模様があり、マムシかと思いましたが、頭が意外と小さいので、マムシではなく、ヤマカカシの仲間ではないかと思いました。いずれにしても、ヘビは苦手なので、竹でしっしと追い払って、先へ行くことにしました。今日は、最高予想気温が28℃、もう夏の気温です。これから山城を探索すれば、当然のようにヘビ、ハチ、ヒルの類が襲ってきます。5月の連休が山城訪問の限界だとつくづく思いました。
堀切

本曲輪北側の堀切

堀切から見た本曲輪。堀切が深いことが分かります。
東側曲輪群

東曲輪群の中心の曲輪には、こんな看板がありました。明治時代に、八沢で不審火が続き、美濃串原の「お犬さま」を祀ったところ、おさまったとのことです。

お犬さまの祠
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