愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(45) 松平記

2023年03月08日 08時10分37秒 | 松平記

松平記p45

翻刻
高政其比浪人して居たりしが、譜代の士紀伊国湯川と云
者、根来衆土橋などと云者共を催し、飯盛の城へ押寄、向城
を取せめけるに三好物外軒実休是を聞、飯盛後詰として
阿波国の軍勢齋藤福良等引率して馳向ひ、合戦を初めけ
る処に根来衆の中にくっきゃうの鉄砲の名人有之ける
が三好実休をねらひ打落す、依之阿波衆皆敗北す
一 松永弾正修理大夫に申けるハ物外軒豊前守殿御討死被
成候間、謀を廻し士卒に力を付可申候由申、三好聞て萬事
汝がとひたるべきとて中々出張すべきやうなし、松永時
分にてハ三好殿ハ出らるまじとて、松永城を出て方々の

現代語
(畠山)高政はその頃浪人していたが、譜代の侍紀伊国湯川という者や根来衆土橋などという者どもを促し、飯盛の城へ押し寄せ、向かいの城を取り攻め立てた。三好物外軒実休がこれを聞き、飯盛城の後詰として、阿波国の軍勢斉藤福良等を引率して駆けつけ合戦となった。そこへ根来衆のくっきょうの鉄炮名人が三好実休を狙い、撃ち落としてしまった。これによって阿波の軍勢は皆敗北を喫した。
一 松永弾正久秀が三好修理大夫長慶に言うには、三好物外軒豊前守実休が討死なされたので、謀を廻らし家臣たちの中に力をつけるものがいると。三好長慶はこれを聞いて、すべてあなた(松永久秀)が対応すべきことであるとして、なかなか出陣なさるようなことがなかった。松永久秀は、この様子で三好長慶殿は出陣することはないとみて、城を出て方々の(一揆などを招き寄せ)

コメント
波乱万丈、戦国時代を象徴する畠山高政の生涯
ここで、畠山高政という人物が登場します。畠山と言えば、私には2つ思い浮かびます。1つは、石川県能登地方の畠山氏。七尾城を築き栄華を誇った畠山氏です。もう一つは、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した畠山氏です。中川大志さん演じるかっこいいい「坂東武士の鏡」、畠山重忠です。しかし、ここで登場する畠山氏は、また別の畠山氏のようです。(関係はあると思いますが)ウィキペディア等で畠山高政について調べました。
<畠山高政>
1527年(大永7)生まれ。織田信長が1534年(天文3)生まれなので、信長より7つ年上です。どこで生まれたか分かりません。父は、畠山政国といいます。ただ、この時父政国は紀伊に遁世しており、河内国の実権は守護代の遊佐長教だったそうです。紀伊で生まれたのかも知れません。
1552年(天文2)家督を相続します。25歳。同年三好長慶と将軍足利義輝の争いがおこり、高政、遊佐長教は三好長慶側につきます。
1558年(永禄元)家臣である安見宗房と対立し、居城である高屋城から酒井、紀伊へ逃れます。31歳。この時までに高屋城に住んでいたようです。

高屋城の位置(ウィキペディア)

1559年(永禄2)高屋城に復帰。どうやって戻ったのかは分かりません。32歳。
1560年(永禄3)三好氏の侵攻を受ける。33歳。三好長慶と敵対関係になっているようです。高政はまた堺へ退去します。この年は桶狭間の戦いの年です。
1561年(永禄4)根来衆と共に紀伊から和泉に進軍。34歳。根来衆を味方に付けて、河内の方に復帰しようと試みています。
1562年(永禄5)3月、和泉・久米田の戦い。35歳。三好長慶の弟三好実休を討ち取る。高屋城を奪還。この戦いのあたりが「松平記」に記事として掲載されているようです。
同年5月、河内教興寺の戦いで三好長慶に敗れる。高政はまた紀伊へ逃れる。
1565年(永禄8)家督を弟の畠山秋高に譲る。38歳。(この年、将軍足利義輝、三好三人衆に討たれる)
1568年(永禄11)41歳。織田信長が将軍足利義昭を奉じて室町幕府を再興。この時、畠山高政・秋高が幕府に出仕。高屋城に復帰します。
1573年(天正元)46歳。弟の畠山秋高が家臣の遊佐信教に殺害されます。
1575年(天正3)48歳。織田信長と戦い、高屋城を破却される。(高屋城の戦い)
1576年(天正4)49歳。死去。

なんと波乱万丈の生涯です。
家臣・守護代との争い、三好長慶との争い、織田信長との争いなど戦いに明け暮れた戦国時代を象徴するような一生です。


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