
松平記p25
翻刻
(三)河衆大久保等を付て西野まで送り申候、其時竹千代殿岡
崎へ帰り、扨駿河へ人質に御下向候時、天野三兵など御供
に下り、宮の前に御屋敷有、福島土佐と申者を今川殿より付
被申ける
一 天文十八年春の比より廣忠御煩有、三月六日御逝去被成
法名道幹と奉申、御年廿四歳、今川殿御かけにて三河国大
かた治り申候の処に、如斯果報これなき次第也、御家督の竹
千代殿駿府に御座候間、三河衆半分ハ皆今川殿へ出仕被
申、殊に一門の中にても一分を被立し人々、大給和泉守殿、
酒井将監殿、同左衛門尉殿、桜井内膳殿などは皆在府被成
現代語
三河衆の大久保等を付けて(織田三郎五郎信広を)西野まで送っていった。その時、竹千代殿は岡崎に帰り、駿河へ人質として下向なされたとき、天野三兵などがお供をし、宮の前のお屋敷に住まわれた。福島土佐と申す者が今川殿より御目付として付けられた。
一 天文18年(1549)春の頃から廣忠殿は病気になられ、3月6日逝去なされた。法名を道幹と申され、御年24歳であった。今川殿のおかげで、三河国は大方が治まったところ、このような果報はないというものである。跡継ぎの竹千代殿が駿府におられるので、三河衆は半分が今川殿に出仕なされ、とくに一門の中でも一分を立てられている大給和泉守殿、酒井将監殿、同じく左衛門尉殿、桜井内膳殿などは、皆駿府におられた。
コメント
竹千代と共に駿府に付いていった天野三兵は、天野康景というそうです。三河一向一揆の時も一族が一向衆であったが、康景は家康について戦ったそうです。後に本多重次、高力清長と共に三河三奉行と称され、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」(清長は寛大、重次は剛毅、康景は慎重でそつが無い)と評価されたそうです。(ウィキペディア)
松平廣忠の死については、諸説あります。「松平記」、「三河物語」は病死としていますが、他に岩松八弥による殺害説、一揆による殺害説などがあるそうです。NHK大河「麒麟がくる」では、信長が刺客をおくり、廣忠を暗殺するという設定になっていました。ただ、信長は、父信秀に叱られてしまいますが。
さて、竹千代が駿府にいる関係で、大給松平などが駿府に居住させられていますが、このことが桶狭間の戦いの後に家康が今川家から独立する時や三河一向一揆の時の西三河の情勢に絡んできている気がしました。つまり、これらの武将が今川側として家康と対峙することになるのではないかと思いました。
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