愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(47) 松平記

2023年05月01日 07時29分52秒 | 松平記

松平記p47
(佐々木此大勢にて)
洛中をとらんもままなるに六角殿も先手の蒲生もかいな
き人にて徒に援軍地蔵山に守居て飯盛合戦に畠山まけ
たると聞き、早々周章て江州へ引入給ふ、因蔵六角殿輿下
の侍大将をうとミ皆立身の心かくる人々あまた浪人致
し候也、其比より近江一国とる人天下の望なき人をは主
にきらひしとハ申伝候也、蒲生右兵衛大夫下かせを煩候
て合戦に出事ならず引退候由聞えし、是ハ三河国深溝住
人加藤三之亟と申者、松平主殿同心成しが少子細有主殿
所を出、弓矢修行にあるき京にて此合戦に逢て後諸仕し
を聞て爰にくはしくしるしもの也、この三之亟は左馬之助

現代語
(佐々木は大軍にて)洛中を奪取しようとしているのに、六角殿も先手の蒲生も頼りない人で、ただ援軍として地蔵山に守りとして在陣するだけで、飯盛の戦いで畠山が負けたと聞くと早々と慌てて江州(近江国)に引いてしまわれた。因蔵六角殿配下の侍大将を嫌い、立身の心を持つ多くの侍が浪人となった。その頃から「近江一国を取る人は天下を取る望みがないような人であるならば主としては嫌われるものである」と伝え広がっていた。蒲生右兵衛大夫、風邪を煩い、合戦に出ることができず、引退したと聞いた。これは、三河国深溝の住人加藤三之亟という者で、松平主殿(伊忠?)に味方していたのであるが、わけあって主殿所を出て、武者修行として京に行ったときにこの合戦に遭遇した。その後いろいろな人から聞いて、ここに詳しく記録するものである。この三之亟は左馬之助(の父である)

コメント
翻刻の怪しい箇所①

これを「因蔵六角殿輿下」と翻刻しましたが、「六角殿」以外の文字は意味が今一つ分かりません。特に「因蔵」というのが分かりません。

翻刻の怪しい箇所②

蒲生右兵衛大夫が「下かせ」を煩った。「下」を無視して、これは風邪ではないだろうかと考えました。

翻刻の怪しい箇所③

三河国深溝松平主殿に同心していた加藤三之亟という人物の「亟」という字です。漢和辞典でこの字は、「きょく」「き」という読み方しかありません。しかし「さんのきょく」ではおかしいので、「さんのじょう」と読むべきだと思いました。つまり「丞」という字のつもりで書いているのかなと思いました。なお、この人は伊予松山城を造った加藤嘉明(加藤佐馬之助)のお父さん、加藤教明だそうです。


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3 コメント

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聞いた話 (midorishako)
2023-05-02 06:04:33
hakusiyuさん
コメントありがとうございます

勉強になりました。
「援軍」について、たしかに「援」はおかしいので、調べたところ、「勝」という字ではないかと思いました。「勝軍地蔵山」となります。しかし、本当は「将軍地蔵山」で、「ショウグン」を「勝軍」と書いたと思われます。「松平記」の作者はおそらく三河の人で、この京の話も加藤三之丞に聞いた話ということなので、言葉の音は正しくても漢字は当て字になる事が考えられると思いました。
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Unknown (hakusiyu)
2023-05-01 17:09:12
追加です。
「因蔵」ですが、「因茲」(これによって)かも?と思いました
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Unknown (hakusiyu)
2023-05-01 16:35:11
こんにちは〜
今回はなかなか難しいですね
「因蔵」と読むのかどうかわからないけど、もしかしたら人名かな?
「輿」もちょっとわからない。
「與(予)」ではないでしようか?
下風邪と三之丞はそれでいいんじゃないですか?
これとは別に「援軍地蔵山」ですが、援軍じゃなくて将軍だと思います。
いつか京都の将軍地蔵山城に登る予定です。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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