愛知の史跡めぐり

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松平記(24) 松平記

2022年05月05日 11時48分08秒 | 松平記
安城合戦から人質交換へ

松平記p24

翻刻
郎五郎殿籠りしに先手ハ岡崎衆大久保新八、阿部大蔵本
多平八郎を初として三百にて出す、尾州より後詰の勢有、
雪斎被申ハ、城をは駿河・遠江衆被攻へし、三河衆ハ後詰へ
向て給ハれと申、尤と請て後詰の勢へ夜討し速に追散、す
くに城へ押寄、二丸・三丸を岡崎衆攻破る、爰にて榊原藤兵衛、
本多平八郎討死しける、終に本丸計りに成、大将三郎五郎
を生捕にせんとす、尾州より後詰の大将平手と申す者扱を
入て、後三郎五郎殿をたすけて此方へ給り候ハバ、岡崎の
人質を其方へ返すへしとの儀にて、雪斎扱を聞て竹千代
殿熱田に置申たるを其時此方へ取、織田三郎五郎殿に三

現代語
(安城には織田三)郎五郎信広殿が籠っているので、先陣は岡崎衆の大久保新八、阿部大蔵、本多平八郎忠高をはじめ300を出した。尾張より後詰の兵があった。雪斎が申されるには、安城城は駿河、遠江衆が攻め、三河衆は後詰に向かって攻めよと。尤もと請けて、(三河衆は)後詰の兵を夜射ちにてたちまち追い散らした。すぐに城へ押し寄せ、二の丸、三の丸を岡崎衆攻め破った。ここにおいて榊原藤兵衛、本多平八郎忠高は討死してしまった。ついに本丸ばかりになり、大将織田三郎五郎信広を生け捕りにしようとした。すると尾張衆より後詰の大将平手と申者が調停を申し出てきて、織田三郎五郎を助けてこちらへ給われば、岡崎の人質をそちらへ返すということであった。雪斎はそれを聞いて、竹千代殿熱田に置いてあるのを今川方に取り寄せ、織田三郎五郎信広殿には(三河衆・・・・)

コメント
前回後半の続きで、いわゆる安城合戦です。今川側の中心は雪斎和尚です。それに従い岡崎衆大久保新八、本多平八郎、阿部大蔵らが登場します。大久保新八は、大久保忠俊で大久保党の始まりの人です。本多平八郎は、徳川四天王の一人本多平八郎忠勝の父で、本多忠高です。本多忠高はここで討死をしてしまいます。一緒に討死をした榊原藤兵衛は、ちょっと分かりません。四天王の一人の榊原康政とは直接関係はないようです。松平中心史観なので、一応駿河衆と書いていますが、具体的な駿河衆の武将名は登場していません。活躍しているのは、岡崎衆ばかりです。(しかし、松平廣忠は出てきません。)

安城城にある本多忠高の墓


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