愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

河和城址 美浜町(2)

2015年03月08日 06時33分17秒 | 美浜町
曲輪Ⅰの虎口部分
曲輪Ⅰの北側に虎口、櫓台があるというので、探しましたが、よく分かりませんでした。ただ堀切のようなものがあって、もしここに虎口があったとしてもかなり城に入りにくいなあと思いました。

写真の上部が竪堀のようになっていました。

曲輪Ⅰ
主郭(曲輪Ⅰ)は、草が刈ってあって、平になっていました。


主郭(曲輪Ⅰ)の西側は土塁がありました。


曲輪Ⅰの南端の櫓台
この土塁の南端が櫓台になっているはずなのですが、竹やぶでよく分かりませんでした。


曲輪Ⅳから曲輪Ⅴ
曲輪Ⅳは、果樹園になっていました。曲輪Ⅳには、土塁の跡らしきものがありました。土塁に木がおい繁り、まるで「天球の城ラピュタ」のように見えました。曲輪Ⅳと曲輪Ⅴとの間にある土塁の跡がありました。東側の土塁跡は、まわりが虎口っぽくなっていたので、もしかしたら、櫓台だったのかもしれないと思いました。
曲輪Ⅴも果樹園になっていました。

河和城址 美浜町(1)

2015年03月07日 16時04分33秒 | 美浜町
河和城築城は戸田氏
田原城、戸田氏のつながりで河和城址を訪れました。河和城は、戸田氏が築城したと伝えられています。

河和城の横掘

河和城址は、美浜町にあります。戸田氏の本拠地である渥美半島田原と知多半島美浜町河和は離れているように思っていましたが、地図で見ると、海を渡ってすぐのところでした。


陸路を通っていくと、三河(今川や松平)、尾張(織田や水野)を通らないといけませんが、船で行けばすぐです。戸田氏はおそらく三河湾の海上権を握っていたのではないでしょうか。

地域の人に壊された河和城
案内の看板におもしろい話がありました。
1590年(天正18年)8月、秀吉の小田原攻めに出陣した当時の城主戸田孫八郎守光が小田原で戦死します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは河和城を攻め、河和の人たちによって河和城は壊されました。戸田孫八郎守光の妻子は親戚である於大の方を頼って江戸に逃げました。その後、守光の妻子は姓を「戸田」から母方の姓である「水野」に改め、関が原の戦い後、河和に帰ることができました。このようにして河和城は壊されましたが、今でも地元では河和城のあった山を「お城山」と呼んでいます。(現地案内板より)

河和の人々が城主守光が戦死したのを聞いて城を壊したというのは、ある種一揆のような感じを受けました。さらに、守光の妻子の親戚が水野氏というのもおもしろいです。調べましたら、守光の妻は水野信元の娘で、於大は水野信元の異母妹です。つまり、この時代、河和戸田氏は知多半島の北部を支配していた水野氏と婚姻関係を結び「同盟関係」にあった事が窺えます。

河和城址概要図
さて、駐車場から階段を登るとすぐ曲輪Ⅰになります。

「愛知の山城ベスト50」より

一色山城 瀬戸市

2015年03月01日 08時14分49秒 | 瀬戸市
「愛知の山城ベスト50」に、「訪ねてみることをお勧めする」とあったので、行ってみることにしました。この本にもあるように、石碑も案内板もないというので、不安ではありましたが、どうにか見学することができました。(たぶん場所はあってると思います)

一色山城とは
「愛知の山城ベスト50」によれば、築城年等はっきりしたことは分かっていないそうです。しかし、伝説があり、それによると天文3年(1534年)に磯村左近が感応寺の和尚と囲碁の対戦中に品野秋葉城主松平家重、落合城主戸田家光が攻めてきたそうです。磯村左近は悠々と碁を打ち続け、打ち終わると戦場に駆けつけましたが、討死したそうです。

桜井松平氏の2代目は?
なお、「愛知山城ベスト50」によれば、松平家重は、松平宗家、松平清康と反目していた桜井松平信定の子どもとなっています。ところが、ネットで調べると桜井松平家の2代目、つまり松平信定の子どもは松平清定であるとしているものが多いです。松平信定の孫は松平家次で、三河一向一揆で一揆側に味方した武将です。これは大体一致しています。桜井松平家の2代目は清定なのか、家重なのか調べてみたいです。

登城口はどこ
さて、一色山城に戻りますが、城址は本当に看板も何もなくて、「愛知山城ベスト50」で詳しく所在地が書いてあったのでよかったですが、知らなければ通り過ぎて行ってしまったでしょう。


「ほたるの里」の看板から2つ目の40キロ規制の看板の近くに登城口があるとのことでしたので、慎重に歩いて行きましたが、それらしい入り口も見当たりません。この標識を通り過ぎると左側はずっとフェンスになっていて、山に入ることができません。そこで思い切って入れそうなところから入ると、道らしきものがあって、「ああここでよかったんだ」と安堵しました。

一色山城概要図「愛知の山城ベスト50」より

Ⅰの曲輪
しばらく道らしき道を南下していくと、1メートルから2メートルくらいの小高い盛土が見えました。たぶんⅠの曲輪です。

北のほうから簡単に城に行き着くことができるということは、それだけ防御が甘いということかと思いましたが、このⅠの曲輪のまわりは切り立った崖になっていて、一箇所以外は昇り辛いものとなっていました。

Ⅰ曲輪北側の崖


櫓台、虎口
Ⅰ曲輪の中央東側に虎口跡、櫓台跡らしきものがありました。


土橋
Ⅰ曲輪とⅡ曲輪の間の土橋跡です。

西側の堀跡です。


腰曲輪
西側一帯を腰曲輪で防御していました。


「愛知の山城ベスト50」では、ほかに「馬出し、枡形虎口など備えたメリハリの利いた縄張り」と紹介されていましたが、私にはよく分かりませんでした。今度行くときにはもっと注意してみたいと思います。

ぜひ看板設置を
今回看板なしの山城に初めて挑戦しましたが、看板のありがたさがしみじみと分かりました。研究者にとってはこれが当たり前なのですが、われわれ学習者には案内板は必要不可欠です。瀬戸市の職員の皆さん、どうか案内板をお願いします。