愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

豊川海軍工廠(2) 豊川市

2019年08月16日 06時58分59秒 | 豊川市
旧第三信管置き場
いよいよ第三信管置き場です。
信管とは、爆弾の突端につけられたもので、そこに衝撃が加わると、下に付いている爆弾が爆発するというものです。

信管


周りを取り囲む土塁

ここは、まわりを高い土塁に囲まれていました。当然敵の攻撃から守るための土塁だと思ったのですが、「万が一ここが爆発しても、周囲に被害が及ばないようにするため」だそうです。


入口のトンネル 中に入るために、土塁の中を潜り抜けないといけません。そのためのトンネルです。


第三信管置き場の外観

第三信管置き場は、設計が尺貫法ではなく、メートル法で造られたそうです。当時海軍はイギリス流だったので、メートル法を採用したそうです。なので、普段見慣れた窓より大きく見えるのはそのためだそうです。


第三信管置き場の灯り

この写真では、実際の電球はついていませんが、取り外しが部屋の外からするようになっています。なるべく部屋の中で火花等が出ることを避けるためだそうです。


屋根の内部

この建物の屋根を内部から見れるようになっていました。屋根部分は木造でできています。これは爆発の際に、屋根だけが飛ばされ、壁が残るようにするためだそうです。また、写真のように左右がずれているのは、簡単なつくりにしているためということです。

海軍のマークの入った木材

当時使われていた木材が残っていたので、それを使っての屋根組です。錨のマークが入っています。

さて、ここを出ますと、こんどは防空壕の跡です。防空壕は、土を掘った簡単なもので、深さが1.2mほどで天井の覆いがないものもあり、あまり効果的ではなかったようです。

防空壕跡

1945年8月7日に、ここ豊川海軍工廠は、大空襲を受けます。この空襲で2500人以上の人の命が奪われました。

豊川市では、こうした悲惨な出来事を二度と繰り返してはならないと、1995年に「平和都市宣言」をおこない、それから毎年8月7日に平和祈念式典をおこなっています。

私たちは、かの戦争を繰り返さないために、しつこいくらいに戦争の悲惨さを語っていく必要があるようです。

豊川海軍工廠 おしまい
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豊川海軍工廠(1) 豊川市

2019年08月15日 14時44分32秒 | 豊川市
8月4日、豊川市の海軍工廠跡を訪れました。この企画は、「豊川冤罪事件、田邉さんを守る会」が企画しました。豊川冤罪事件というのは、2002年7月豊川市のゲームセンターの駐車場にいた幼児を連れ去り、海に捨てて殺害したという事件で、無実の田邉さんが自白だけを根拠に懲役17年の刑に処せられたという事件です。この事件で罪を着せられた田邉さんを守る会が、広報活動の一つとして企画しました。

豊川市海軍工廠は、有名な戦争遺跡で、一度行って見たいと思っていました。なぜ工場ではなく、工廠なのか、軍隊直属の軍需工場を特に工廠と言ったそうです。

海軍工廠全体図(ガイドブック豊川海軍工廠より)

工廠は図のように広大な敷地(186ヘクタール=ナゴヤドーム約18個分)を持つものでしたが、公園として整備されているのは、図の赤い四角の部分のみです。


平和公園全体図

はじめに1945年8月7日の空襲の時に着弾したという跡地を見ました。

着弾した跡地

旧第一火薬庫跡
その奥には旧第一火薬庫がありますが、その屋根部分に煙突があるのに注目しました。下は火薬庫ですから、下で何かを燃やしていたわけではありません。なんと、これは空気を逃がす煙突でした。

第一火薬庫の煙突

そして、下の方には空気の取り入れ口がありました。

空気取り入れ口


旧第一火薬庫全景

旧第一火薬庫に入りました。まず目に入ったのは、プラットホームです。ここにトラックが入り、荷物の受け渡しをしていたそうです。

第一火薬庫跡のプラットホーム


第一火薬庫の内部

黒いのは、コールタールで、断熱のために塗られています。壁は何層にもなっていて、周囲の温度に左右されず、室内が一定の温度で保たれるように工夫されていました。空気の取入れ口や排気のための煙突もその工夫の一つだそうです。
「自然のクーラーだ。」
と、見学者からつぶやきが聞こえました。

また、この工廠で使用されていた配電盤や水道管が展示されていました。

配電盤


水道管

また、第一火薬庫と本部をつなぐ電話が遺されていました。今は使えませんが、この場所にあったそうです。

電話機

次の旧第三信管置き場に向かいました。途中に、いろいろな物が遺されていました。


水槽跡


街路灯跡

豊川海軍工廠 つづく
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ふくいの山城へ いざ発進 福井県

2019年08月14日 09時16分22秒 | 福井県
8月11日(日)は山の日。福井で山の日にちなんで山城の講演会がありました。
題して「ふくいの山城へ いざ発進」福井の山城についてのガイダンス的なお話でした。
講師は郷土史研究家の南洋一郎氏です。

ふくいの山城を年代順におおまかに、平安・鎌倉期、南北朝期、室町時代、戦国時代、織豊期そしてテーマ別に若狭地方、一向一揆関連というふうに分類し、それぞれの代表的なお城について説明していただけました。後半は丸岡城や大野城など全国的にも有名なお城について、最新の情報を教えていただきました。

講演会の様子

ふくいの山城入門講座

「ふくいの山城入門講座」申込書

南氏は、「ふくいの山城入門講座」を開催することを予定しているそうです。この講座への参加申込書が会場にレジュメと一緒に配られていましたが、講演会が終了すると、講座への申し込みを希望する方が続々と見え、山城への関心の高さを伺うことができました。会は、資料代や会場費など実費を徴収しますが、基本無料だそうです。申し込みを希望される方は、以下のところにメールか電話で連絡をしてください。

メール my-712@mx6.fctv.ne.jp 電話0776-56-1821

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今度は亀山城、古宮城へ行きます 愛教労城の会

2019年08月08日 19時20分08秒 | 愛教労 城の会
第2回の愛教労城の会見学会の日程と行くお城が決まりました。

日  程 2019年10月26日(土)
時  間 午後1時
行くお城 亀山城、古宮城(愛知県新城市)
集合場所 道の駅「つくで手作り村」

ご一緒できる方はぜひ下記メールにて連絡ください。
mseijyun@gmail.com



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国吉城学習会 福井県美浜町

2019年08月06日 13時20分38秒 | 福井県
国吉城歴史資料館10周年イベントの一環として、国吉城に関連するテーマでの学習会が行われました。講演内容は、武田氏に関するものでした。武田氏といっても甲斐の武田信玄の武田氏ではありません。戦国時代、同時期に若狭の守護であった武田氏のお話です。この武田氏は、国吉城の城主である粟屋氏の主君に当たります。そこで、この武田氏についても学習して、国吉城を多面的に考えようということです。

学習会の講師 有馬香織さん(右)パソコンをいじっている方は、館長の大野さん

有馬さんは、現在一乗谷朝倉遺跡資料館に務めていらっしゃいますが、もともとは、若狭歴史資料館の学芸員でした。このたび一乗谷朝倉遺跡資料館の拡張に伴い、そちらに務めることになったとのことです。

「粟屋勝久の主君・若狭武田氏の文化と力~本家の正当性~」というタイトルで、いろいろとお話をしていただきましたが、一番印象的だったのは、「若狭の武田氏こそが本家である」ということでした。

戦国時代の武田氏といえば、甲斐の武田信玄を思い浮かべ、他に武田氏という武将がいたとしても、それは傍流で、甲斐武田氏こそ本家と思ってはいないでしょうか。私もそう思っていました。しかし、今回の講演で武田氏の本流は、若狭の武田氏だということが分かりました。

武田氏は、もとは清和源氏で、新羅三郎義光(1083~1087年の後三年の役で活躍)の三男の子孫だそうです。常陸国那珂郡「武田郷」から、甲斐国、安芸国(今の広島県の一部)、そして若狭国へと「総領家」移動したそうです。

若狭武田家が本家であることの証拠は、以下のようです。
①弓箭口伝(きゅうせんくでん)
流鏑馬(やぶさめ)などの技術を武田家においては、宗家にしか伝来していない。ウィキペディアによれば、以下のように伝来されたそうです。(下の系図は講師の方の説明ではありません。)

清和天皇‐貞純親王‐源経基‐満仲‐頼信‐頼義‐義光‐義清‐清光‐武田信義‐信光‐信政‐信時‐信綱‐信宗‐信武‐氏信(安芸武田氏)‐満信‐信繁‐信栄(若狭武田氏)‐信賢‐国信‐信親‐元信‐元光‐信豊‐信時‐義統‐義親‐信恭‐信重‐信直‐細川藤孝
※青色は若狭武田家

②「大善太夫」「伊豆守」の名乗り 
この名乗りも武田家宗家に伝わる名乗りだそうで、若狭武田氏は、2代信賢(大善太夫)3代国信(大善太夫)4代信親(大善太夫)5代元信(大善太夫・伊豆守)6代元光(大善太夫・伊豆守)7代信豊(大善太夫・伊豆守)8代義統(大善太夫・伊豆守)というふうに歴代受け継がれていること

以上のことから、若狭武田氏こそ甲斐武田氏、安芸武田氏の総領家ではないかと強調しておられました。

そして、若狭という地域にもっと誇りを持っていいと言っていました。

現在は、原発銀座ということで、産業がない、漁村の地域というイメージがありますが、戦国時代は、京都に近いこともあり、日本の政治文化の中心地のひとつであったようです。
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