愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

木戸城(2) 安城市

2019年09月17日 05時38分55秒 | 安城市
さっそく9月16日(月)木戸城に出かけました。



木戸城概要図(上記調査報告書に加筆)

木戸城は、現在春日神社になっています。「三河二葉松」で「社地也」と記述されていますので、江戸時代から
春日神社があったのかも知れません。

木戸城は、現在春日神社

神社東側の鳥居を見ると、まず左側に小さな高まりがありました。調査報告書では土塁ではないかとみています。

東側鳥居左の高まり(土塁?)

さらに、その鳥居の右側にも高まりがみられました。これも土塁ではないかと思われました。

東側鳥居右の高まり(土塁?)

そして、この土塁の外側には空堀がありました。

神社東土塁の外の空堀

木戸城 つづく

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木戸城(1) 安城市

2019年09月16日 19時44分00秒 | 安城市
先日ネットで木戸城を調べていましたら、愛知県埋蔵文化財センターの「木戸城遺跡・古新田遺跡」という調査報告書のPDF文書を見つけました。

木戸城発掘現地説明会(2001年11月)調査報告書より

この調査は、矢作川改修工事に伴い、国土交通省から愛知県教育委員会を通じて、上記センターに委託があり、2000年10月~11月に行われました。

木戸城の位置(地理院地図より作成) すぐ南に矢作川が流れています。また、野寺本證寺、藤井城、浅井西城が近くにあります。

報告書を読むと、遺構として土坑や溝、土塁等が確認されたこと、出土品としてたくさんのセトモノ(すいません陶磁器に知識がなく、壺も茶碗もみんなセトモノという認識です)が出てきたということです。セトモノを見れば、その遺跡の年代が分かるそうで、そういう知識が必要だと痛感しました。
それと、略記号です。SA(柵)、SB(建物)、SD(溝)、SK(土坑)、SQ(土塁)というふうに初めに説明してありましたが、使い慣れていないので、いちいちこのページに戻って確認しなければなりませんでした。県民向けの調査報告書であるならば、もう少し優しい表現でもいいかなと思いました。

木戸城は、文明3年(1471)頃の築城とされ、松平信光が安祥城を攻略した時、松平家創設以来の重臣成瀬氏を呼び寄せ、木戸に居館を設けさせました。これが木戸城で、目的は小川の石川氏、藤井の松平氏に対峙するためだそうです。しかし、石川氏が松平氏に服従したので、木戸城は不要になったそうです。
これが、木戸城の一般的な説明だと調査報告書は述べています。このあと、いろいろと文献的にこの説明が妥当かどうか検討していますが、私には難しいので、一般論を紹介するにとどめます。

木戸城 つづく

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大浜界隈 碧南市

2019年09月07日 07時13分23秒 | 碧南市
この大浜は、港町として栄えました。堺と繋がっていたのだと思います。徳川家康が本能寺の変の時「伊賀越え」をして逃げてきたとき、ここから船で三河まで行きました。当時から港として栄えていたようです。
お寺など古い建物がたくさんありました。

旧大浜警察署 大正時代に建てられたものだそうです。立派な建物です。


藤井達吉現代美術館 藤井達吉は、地元生まれの美術家で、特に小原和紙の発展に寄与した人だそうです。当日は、「空間に線を引く」と題して現代彫刻家19人の作品が展示されていました。


太鼓堂 浄土真宗大谷派西方寺。いかにも浄土真宗のお寺という感じがします。明応5年(1496)棚尾村からこの大浜村に寺を移し、名前も西方寺としたそうです。その後、町の発展と共に栄え、数ヶ寺の末寺を持つ、三河有数の大坊となり現在38代住職に至っているそうです。


西方寺と九重味淋(みりん)の間の道 左の建物が九重味淋(みりん)


九重味淋 安永元年(1772)石川八郎右衛門信敦がみりんの製造を始めたそうです。それ以来の老舗です。


永井直勝生誕の地 宝珠寺というところが生誕地となっています。つまり、ここに長田重元の居館があったと考えられています。

ということで、大浜は昔栄えた港町であったことが分かりました。しかし現在でも碧南市はトヨタ関連の工場が立ち並び、市の財政はわりと裕福なようです。
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大浜陣屋跡 碧南市

2019年09月06日 18時18分57秒 | 碧南市
大浜陣屋は水野氏の陣屋
8月29日、碧南市の大浜を訪れました。大浜の陣屋跡を訪ねました。大浜陣屋は現地の案内板によれば、
「明和6年(1769)から明治5年(1872)まで、駿河沼津領主・水野家が西三河における領地を支配するために設置した役所のこと」
だそうです。
「水野家は、徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家で、忠清の時に信濃国松本7万石の大名となりました。」
水野家といえば、水野忠政(緒川城城主)、水野信元(刈谷城城主、三河一向一揆で徳川家康の援軍をした人、しかし織田信長に謀反の疑いをかけられて家康に殺害された人)、水野勝成(刈谷城で“カツナリクン”というキャラクターになっているが福山城の城主でもある人)など徳川家康や江戸幕府に大変縁の深い一族です。
水野高恒、なんと江戸城で刃傷沙汰
「しかし、享保10年(1725)忠恒(松本6代目)が江戸城内で刃傷沙汰を起こし領地を没収され、信濃国佐久郡7千石の大名の旗本となりました。」
江戸城内での刃傷沙汰はいけません。あの赤穂の浅野内匠頭もそうでした。当然切腹、御家断絶です。水野家はこれまでの実績があるということで、御家断絶は免れ、大名から旗本に格下げされたようです。事件の首謀者水野忠恒は叔父の水野忠穀(ただよし)の家に謹慎蟄居となり、そこで亡くなったそうです。
水野忠友、大名として復活させる
「その後、水野忠友は明和5年(1768)西三河領6千石の領地を受け、1万3千石、安永6年(1777)には駿河国沼津に城地を拝領、さらに忠友の子忠成(ただあきら)の代にも加増を受け、天保元年(1830)には5万石の大名になりました。」
ということで、この大浜陣屋は水野忠友の代から始まったようです。

水野忠成・水野家系図(現地案内板より)

大浜を支配していた大名が静岡県の沼津藩の大名とは知りませんでした。しかし、もともとは緒川・刈谷の水野氏であったことも初めて知りました。

大浜古城、羽城
さて、その大浜陣屋ですが、もともとは大浜古城、羽城という城がこの地にあったようです。三河国二葉松には以下のような記述があります。
「大浜村古城 稲熊氏住ス後天野孫三郎天文年中五十貫領次
永井傳八直勝或傳十郎始当村名主永田平右衛門子也信康君、始仕官」

つまり、はじめに大浜古城には稲熊氏が住んでいた。その後天野孫三郎が天文年間に50貫でここを支配し、次に永井直勝が支配した。なお、直勝は当村名主永田(長田)重元の子である。永井直勝ははじめ徳川信康に仕えていた。というのです。

暗殺請負人、天野孫七郎
この天野孫三郎の関しては、「三河物語」に天野孫七郎として記事がありました。天野孫三郎という人物はネットで検索しても出てきません。代わりに天野孫七郎は、西広瀬城主佐久間全孝暗殺未遂事件の首謀者として出てきます。

松平広忠が天野孫七郎を呼んで命ずるには、「広瀬の佐久間を切ってこい。殺害したら、大浜に百貫で領地をやろう、もし負傷させただけなら50貫の領地をやろう」と。佐久間の殺害は難しいが、主の命令なので背くわけにもいかず、孫七郎は受けることにしました。広瀬への道中案を練りますが、よい考えもなく、孫七郎は佐久間に奉公することにしました。奉公しているうちに殺害の機会もあるだろうと考えました。広瀬ではうまく事が運び、孫七郎は寝ている佐久間全孝を討つチャンスが来ました。佐久間が起き上がったところを討とうと待ち構えていましたが、なかなか起きないので、こんどは布団の上から刺そうとしましたが、布団が厚く、これもうまくいきそうにありません。そこで、首から上を切ろうと蒲団の裾をまくり、切りつけました。切られた佐久間は少しも動かなかったので、死んだと思い、孫七郎は城から逃げ出ました。途中、刀を落としましたが無事広忠の元にもどりました。そのことを広忠に報告すると、約束通り大浜の地に50貫もらえることになりました。それでこの地を別名「佐久間切り」とも呼んだそうです。一方の佐久間全孝ですが、これで死んだわけではなく自分で帯を頭に巻き付けて傷を養生し、何とか命は助かったということです。

池田恒興を討ち取った永井直勝
この天野孫七郎の後、長田重元が大浜城を拠点としたようです。長田氏は、主君源義朝を殺した長田忠致の末裔です。永井直勝はその長田重元の子どもです。永井直勝は、小牧長久手の戦いで池田恒興を打ち取るなど家康の元で活躍し、関東地方に所領を持つ大名となりました。

その後に、上記水野忠友が大浜陣屋をたて、この辺りを支配したというわけです。

大浜陣屋跡は「大浜陣屋広場」として公園となっています。

大浜陣屋跡の公園

公園は四角い広場になっていて、いろんな掲示物がありました。
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