愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

後瀬山(のちせやま)城(3) 福井県小浜市

2019年10月08日 06時23分35秒 | 福井県
主郭
ここをさらに登ると主郭が見えてきました。

主郭への石段

主郭に入るには石段を登らなければなりません。石段は途中平場があり二重になっていました。この石段の先は厳重な門があったことと思います。小谷城にも本丸に登る際に石段がありました。

主郭左側の石垣 鏡石のような大きな石があった

主郭の基壇には石垣がそれぞれ設けられており、いかにも織豊の城というイメージを受けました。また、門があったと思われるところに四角い石があり、もしかしたら門の礎石かなとも思いました。しかし、小さすぎるので、違うかなとも思いました。

門の礎石か

また主郭には石垣がかなり使ってありました。西側(海側)には土塁のようなものがあり、内側に立派な石垣がありました。

主郭西側石垣(内)

外側にも若干の石垣が残っていました。

主郭西側の石垣(外)

圧巻は主郭東側の石垣です。きれいに積んでありました。

主郭東側の石垣(外) 角は算木積みのようです。

主郭の石垣の様子から織豊時代の城づくりの様子が見て取れます。したがって、この城の最後は京極家によって造られた跡と思われました。

後瀬山城 つづく

後瀬山(のちせやま)城(2) 福井県小浜市

2019年10月07日 06時39分14秒 | 福井県
さあ 登城
後瀬山城にはふもとの愛宕神社鳥居から登るのがいいです。小さいですが、駐車場もあります。

愛宕神社鳥居 愛宕神社は後瀬山城の本丸に社があります。

鳥居をくぐるといきなり急な階段が続きます。この日はけっこう気温も高かったので、息が切れまくりでした。

北東部の遺構

「曲輪群」の看板

ここから先は腰曲輪が幾重にも段になっていました。

段状の腰曲輪

途中、枡形虎口状の遺構がありました。

虎口状の遺構

やがて「堀切 土橋」の案内板がありました。

土橋・堀切

後瀬山城 つづく

後瀬山(のちせやま)城(1) 福井県小浜市

2019年10月06日 19時58分25秒 | 福井県
国吉城での学習会の後、せっかくなので後瀬山城に行くことにしました。後瀬山城とは、国吉城の学習会でいつも話題になるところの、若狭国の守護である武田氏の城です。

国吉城と後瀬山城の位置

後瀬山城は国吉城に比べ、より西の方にありました。その西は高浜、丹後地方へと続いています。南は滋賀県から京都につながっています。
後瀬山城は、武田氏の拠点の城ですが、歴代の武将について紹介します。
ネットに「史跡 後瀬山城跡保存活用計画書」が小浜市よりアップされていましたので、それを参照しました。

一色氏
貞治5年(1366)、一色範光(のりみつ)が守護になりました。一色氏と言えば名門ですが、愛知県西尾市の旧一色町がもともとの根拠地だったようです。愛知県と少しつながりがあります。
その一色氏も永享12年(1440)一色義貫(よしつら)が大和に出陣していたとき、安芸国分郡守護武田信栄(のぶひで)に殺害されてしまいました。
武田氏
武田氏は、このころ甲斐国と安芸国(現広島県)に分かれていました。武田信栄は安芸国の3つの郡を支配する守護でした。そして、武田信栄はなんと将軍足利義教(よしのり)の命令で一色義貫殺害を実行したのだそうです。一色氏を武田氏が殺害したことで、安芸国の武田氏は若狭国の守護にもなりました。こうして武田氏は若狭国にやってきたわけです。

若狭武田家系譜(小浜市「史跡 後瀬山城跡保存活用計画書」より)

上の図のように武田信栄から元明まで8代にわたって若狭武田氏は続きます。ただし、拠点は信栄から4代目元信までは西津の守護所というところだったようです。後瀬山に入ったのは、大永2年(1522)元光から後のことです。
大永7年(1527)に丹波勢と京都桂川の合戦がありましたが、武田氏は大敗北を喫し、このことが影響し、若狭武田氏の衰退を決定づけたそうです。このあと信豊、義統(よしむね)、元明と続きますが、家臣である粟屋氏(国吉城城主)や逸見氏(高浜城城主)の反乱、武田信豊、武田義統親子の争いなどがあって徐々に力を弱め、ついに永禄11年(1568)朝倉氏によって守護武田元明が越前に連れ去られるという事態になってしまいました。
天正元年(1573)、その朝倉氏も織田信長によって滅ぼされてしまいます。若狭は信長の家臣丹羽長秀が治めます。武田元明は守護としての威光はなく、高浜逸見氏の旧領の内3千石を与えられ、辛うじてその名望を保ったそうです。天正10年(1582)本能寺の変が起こると、元明は明智光秀に味方しました。しかし、光秀が豊臣秀吉に敗れると武田元明も同年7月殺されてしまいました。
丹羽氏、浅野氏、木下氏、京極氏
その後、若狭国は丹羽長秀、浅野長吉(ながよし)、木下勝俊らが治めました。関ケ原の戦いの後は、京極高次が戦いの功績で若狭を治めました。高次ははじめ後瀬山城に入りましたが、後に小浜城を築城し、城下町の整備をしたということです。
酒井氏
江戸時代は、寛永11年(1634)に酒井忠勝が小浜城に入り、若狭を支配しました。そのまま酒井氏が藩主として明治維新に至ります。

後瀬山城概要図(小浜市「史跡 後瀬山城跡保存活用計画書」より) 青い線は登城ルートです。

後瀬山城 つづく

国吉城学習会 9月 福井県

2019年10月04日 13時41分58秒 | 福井県
恒例の国吉城学習会に出かけました。今回は、若狭の武将逸見(へんみ)氏です。タイトルは「粟屋氏の盟友・逸見氏と若狭武田氏」です。

今回の講師の寺下さん 寺下さんは、高浜町郷土資料館にお勤めです。

逸見氏とは、若狭武田氏の四家老の一人だそうです。四家老とは、内藤氏(守護武田氏の守護代)、粟屋氏(国吉城城主)、武藤氏(大飯郡佐分利郷石山、石山城城主)、逸見氏の4家だそうです。

甲斐源氏の系図(当日資料より作成)

この逸見氏について、その出自や武田氏、粟屋氏との関係についてお話がありました。

講師の方は、大変ざっくばらんな方で、お話も大変楽しく聞くことができました。