愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

菩提山城(4)三の曲輪 岐阜県不破郡

2021年04月22日 10時02分45秒 | 岐阜県
大手曲輪を進み、左に折れると、三の曲輪に入ります。

三の曲輪

三の曲輪は兵だまりだと思われますが、その先には出曲輪があり、さらに堀が巧みに設けられていました。

三の曲輪と出曲輪の間の堀切

この堀切が大きくて深いので大変感動しました。南西方向からの侵入を阻むための最終ラインでしょうか。素晴らしい堀切でした。

堀切の西側、そのまま竪堀になっていました


堀切を横から撮影

大きな堀切をわたり、出曲輪にでます。出曲輪の突端は土塁が築かれていました。

出曲輪突端の土塁

出曲輪の先は、複雑な堀になっています。横堀が2重に掘られ、その間を縦に竪堀が畝状に掘られています。

出曲輪の先の横堀(手前と奥と二重になっています。その間に竪堀が1本見えています)

横堀の間の畝状竪堀(横から撮影)
二本見えています。この奥にやや浅いですが、3本目がありました。

目を右の方に移すと、大きな竪堀が掘られていました。

出曲輪右(北)の大きな竪堀

この出曲輪の先の堀の規模は大変なものでした。ちょうど関東の山中城の障子掘りを見るような感じがしました。かなり堅固でした。菩提山城の南西方向は関ヶ原です。菩提山城は、東軍の城になりましたから、東軍が西軍の侵入を防ぐために強力な堀を築いたのではないかと思いました。

菩提山城 つづく

菩提山城(3)土橋、大手曲輪 岐阜県不破郡

2021年04月21日 07時07分46秒 | 岐阜県
ここから結構険しい登山道を行くと約40分ぐらいで城域にたどり着きます。

「これより菩提山城」看板


菩提山城縄張り図(山頂本曲輪案内掲示板より)

この地図で一番下の「大手山道、土橋、竪堀」と記されているところです。
左右に竪堀が掘られ、登山道は土橋になっていました。


東側の竪堀

この土橋の上には小さな曲輪が3段になっていて、入口を警護していた様子がうかがえました。

入口警護の曲輪

大手曲輪が見えてきました。大手曲輪は、本曲輪を守る出曲輪的な存在と思われます。

大手曲輪


大手曲輪と二の曲輪の間
間に堀切があり、二の曲輪の南面は削られ、切岸となっていました。

菩提山城つづく

菩提山城(2)登山道 岐阜県不破郡

2021年04月20日 05時15分15秒 | 岐阜県
さあ、菩提山城に登城です。入口に登山コースの案内板がありました。

菩提山城ハイキングコース案内

道なりに行くと、ふと右側に階段と標識がありました。「菩提山城跡ハイキングコース」と書いてあります。「これは見逃しがちだなあ」と、思いました。ただし、道をまっすぐ行っても、「菩提寺」に行き、そこからこのコースに入ることができるようです。

ハイキングコース入り口

ここの階段を上っていくと、すぐに白山神社があります。

白山神社鳥居

また、この地は松尾芭蕉も訪れたことがあるようで、「芭蕉の句碑」なるものがありました。
「此の山の 悲しさ告げよ ところほり」
垂井町の説明で「元禄4年ごろの大凶作に詠まれた歌で凶作によって人々がところ芋を掘り出して生活している様子を詠んだ」そうです。

ところ芋とは、ネットで調べると、ヤマノイモ科の蔓性多年草だそうで、味はまずくて、多くの図鑑で「食べられません」と紹介されているそうです。


芭蕉句碑

白山神社を後にして、山を登っていきますと、途中、眺望が開けているところに出ました。
方角は東の方です。よく見ると、名古屋駅前のビル群が見えました。びっくりでした。

登山道中腹からの眺望(名古屋駅ビル群発見)

菩提山城 つづく

菩提山城(1)竹中陣屋 岐阜県不破郡

2021年04月19日 11時34分01秒 | 岐阜県
 菩提山城は天文13年(1544)ごろ地元の豪族岩手氏の居城だったそうです。その後、永禄元年(1558)竹中重元(いわゆる竹中半兵衛の父)が岩手氏を滅ぼし、永禄2年(1559)菩提山城を築いたそうです。竹中重元は、永禄3年に死去したので、子の重治が家督を継ぎました。有名な竹中半兵衛です。

竹中半兵衛像(竹中陣屋にて コロナ禍の中マスクをしていました)

半兵衛は秀吉の「三顧の礼」で家臣となり、黒田官兵衛と「両兵衛」と呼ばれました。秀吉の戦いの参謀として活躍しましたが、天正7年(1579)中国攻めの時に病気で亡くなりました。その後は子の重門がつぎました。重門は菩提山城を降りて、麓の岩手に館を構えました。菩提山城は、その時点で廃城になりました。

竹中陣屋(菩提山麓の岩手にあります)

関ケ原の戦いでは、はじめ竹中重門は西軍に味方していましたが、井伊直政の仲介で徳川家康につきました。そして、家康側の砦として菩提山城を提供しました。NHKの「空から読み解く! 新説・関ヶ原」という番組では西軍のはじめの構想として玉城、松尾山城とともに関ヶ原に来た東軍を囲む城として菩提山城は位置づけられていました。

竹中陣屋は、江戸時代竹中氏が幕府の旗本として陣屋を構えていた場所です。現在は、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っています。

水堀跡


櫓門北側の石垣跡

また近くには竹中氏が天保年間に文武両道を教えるためつくった道場菁莪(せいが)堂を記念した菁莪記念館がありました。その中に竹中陣屋の模型が置いてありました。

菁莪記念館


竹中陣屋模型(四角い堀に囲まれた部分が竹中陣屋です。門は右上にあります。陣屋の大部分は現在の岩手小学校の敷地となっています)大変広かったことが分かりました。

菩提山城 つづく