愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(13) 松平記

2022年02月09日 11時15分21秒 | 松平記

松平記p13

翻刻
なんとを三木より同道し廣忠へ参ける
一 織田殿下知により上和田の城に松平三左衛門を置、岡の
城、三木の城に蔵人殿衆を置、上野城に酒井左衛門尉を置
岡崎へ敵をなし候間、国中大方敵に成、岡崎一城に成申候
 事
一 岡崎衆浅井と申者逆心して蔵人殿へ申様ハ、廣忠を切候
て可進候間、知行の折帋を可被下候由申、蔵人殿大蔵丞を
切候て参候ハバ、知行可出候、廣忠にハ恨なし大蔵子主を
切申候に、出頭御させ候事にくゝ思召候由被仰越候へ共
彼者中々大蔵を切事ハ難叶候由申たると後にしれ申候

現代語
(内藤甚蔵は、大久保甚四郎)などを引き連れ廣忠に帰参した。
一 織田殿の命令により、上和田の城に松平三左衛門を置き、岡の城、三木の城に蔵人殿の衆を置き、上野城に酒井左衛門尉を置き、岡崎廣忠に敵対した。それで国中が廣忠の敵になり、岡崎一城になってしまった。
一 岡崎廣忠方の浅井というものが謀反を起こし、蔵人信孝殿に言うには、廣忠を切って進ぜよう、それで領地をください、と。蔵人信孝殿は、阿部大蔵を切って参れば、領地をあげよう、廣忠には恨みはない、大蔵の子は主を殺しているのも関わらず、廣忠に出頭していることが憎く思われる、と仰せられたが、かの者(浅井)が、なかなか大蔵を切ることができずにいることが、後になって知られるようになった

コメント
前回までに不思議の一つであった酒井左衛門尉ですが、ここで上野城に入ったとあります。上野城は豊田市にあるお城です。そこの案内板には「(前略)この城には松平内膳信定とその子清定が在城した。清定は天文14年(1545)松平廣忠と戦い、同15年に降参して桜井(安城市)に蟄居の身となり、代わって酒井将監忠尚が入城する(後略)」とあります。この説明と松平記の違いは、酒井左衛門尉ではなく、酒井将監忠尚になっていること、さらに織田の命令ではなく、松平の命令になっていることです。一般的には豊田市の案内板に書かれているような話になっています。
どっちが本当か?今後の課題です。
岡崎を裏切った浅井某については分かりません。

豊田市、上野城跡の案内板