鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

『幸福:中島敦・著』 

2012-09-23 22:52:13 | Weblog
終日・・・秋の雨。


昔、此の島に一人の極めて哀れな男がいた。
もうあまり若くなく、この島の美の基準から相当外れた醜い外見で、島一番の貧乏人であった。
たったひとりで、島の第一長老の家の物置小屋の片隅に住み、最も卑しい召使として仕えている。怠け者ばかりの島で、此の男一人は、怠ける暇すらない。
島には、白人のもたらした二つのうちのひとつに、神聖な天與の秘事を妨げる怪しからぬ病があって、男が罹ると男の病、女が罹ると女の病と言われている。
もうひとつは、疲れ病で、軽い咳が出て、顔色青ざめ、身体が疲れ、痩せ衰えていつの間にか死に至る(・・・たぶん、結核?かなんかでしょうね)病があって、哀れな貧乏な男は、この疲れ病に憑りつかれた。
哀れな男は、しかし大変賢い人間だったので、己が運命を格別辛い事とは思わなかった。
己の主人が、如何に過酷であっても、尚、自分に、呼吸すること見ること聴くことまでは、禁じなかったし、疲れ病と男の病の両方に罹る人間もいることを思えば、自分は、疲れ病だけで、免除されている。それでも・・・やはり、病は、軽い方がいいし、怠けられるなら、過酷な労働から逃れて、横になっていた方がずっといいに決まっている。

哀れな男は、神に祈った。労働か、病か・・・どちらかを軽くしてください。この願が、欲張りな願いでなければ・・・と。

・・・そんな或る日、哀れな男は、夢をみた。
自分が、この村の長老になり、豪奢な食事、たくさんの妻、怠惰な生活・・・それらを手にいれた夢だ・・・しかも、毎晩、毎晩・・・日に日に豊かになっていく。
そして・・・村の長老は、卑しい下僕になる夢をみた・・・しかも、毎晩、毎晩、粗末な食事と過酷な労働と病に苛む夢を見続ける・・・。

3ヵ月も経つうち、二人の外見は、全く入れ替わったってしまったようだった。

村一番貧しい下僕は、村一番の富貴な長老に。長老は、過酷な下僕に・・・。
もちろん、昼間の生活は、全く変わりがないかのように・・・。
この下僕は、夢が昼の世界より一層現実であることを既に確信しているようである。

今は世に無きオルワンガル島の昔話である。オルワンガル島は、今から80年ばかり前のある日、突然、住民ともども海底に陥没してしまった。
爾来、このような仕合せな夢をみる男は、パラオ中にいないということである・・・。

・・・不眠症にとっては、もうほんとに夢のような世界の『夢』である。

もうひとつの世界が幸福に満ちていれば、過酷な現実にも耐えられる・・・しかも、それは、極上の仕合せなんだろう・・・と思う。私には、もう訪れない世界かもしれない。

中島敦・・・若くして世を去った天才作家のひとり・・・。
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