一年中、暇だけれど、風邪などひいたから、寝床で、読書などしていた。
1ヶ月か、2ヶ月前に新刊が出て、買い求めたのだけれど、1章だけ読んで、そのままにしていた京極夏彦氏の『ヒトでなし』である。
京極氏の小説は、所謂、長編小説が多い。
その厚さも半端ない。
この本も結構、ぶ厚い。
娘を亡くし、職を失い、妻からは、捨てられ、ヒトでなし・・・と罵られた尾田慎吾。
住む家も、お金もなく(ATMに3万円くらいの残金有り?)、雨の中を彷徨い歩く。
もう、ヒトではない・・・ヒトでなしになった。
社会に棄てられ、社会の中では、ヒトとして機能しない自分。
そんな彼に、何故か、群がってくる人。
借金で自宅軟禁中のモト友人、自殺志願者、殺人者、殺害された遺体とともに、向かった先は、群馬の山の中。
宗派も途絶えた古い山寺。携帯電話もよく通じない隔絶した場所に、自殺志願者、殺人犯、死体遺棄。
死にたいヤツは、さっさと自分で、死ね。
オレもクズだが、おまえらだって、ヒトをさばく権利なんてないんだぜ。
そう言い放つ慎吾は、何もかも捨てた或いは、捨てられたヒトでなし。
人は、ヒトを救えない。
誰も、他人を救えない。
それなのに、何故か、全てを捨てたヒトでなしのモトに集まって来る人々。
出来れば、私も、このヒトなしのところへ行ってみたい。
何て言われるのだろう?
さっさと死ね?
私には、職がない。カネもない。
社会のクズだけれど、毎日、毎日、重い身体を養うのが精いっぱいだから・・・。
少しだけ浮かび上がってくる希望は、いつもいつも水泡のように跡形もなく消えてしまう。
私は、何処へ行ったらよいのだろう?
クズには、生きている資格もないのだろうか・・・???
死んでしまった方が、楽だと思うのに、やっぱり、死ぬのは怖いのだ。
そんなことを考えながら、読んだ、風邪ひきの秋の夜更けの長い長い一冊。