今日、会った人がこう言われた。「昭和22年ごろだったと思う。夕食の時に親父はこう言った。『今日で村会議員を辞めた』と。お袋が『どうしてそんなことを』と聞くと、親父は『これからは議員にも報酬が出るようになる。そんなことをしたら、この村はもっと税金を高くしないとやっていけない。それを避けようと6人の仲間の議員を回って、みんなで反対することで同意してもらった。それなのに、議会では6人とも賛成に回った。なんという情けない連中だ。約束が守れないばかりでなく、村民のことを何も考えていない馬鹿だ』と言い切った。お袋は『お金がもらえるならもらえばいい。ウチだってお金があったら子どもに苦労させなくてもすむ』と言った。親父は怒って、ナベの蓋をお袋にたたきつけた。だからよく覚えている」。
戦前の政治家は自分の田畑や家屋敷を失くすくらい政治の理念に燃えた人が多かった。おそらく政治を崇高な仕事と思っていたから出来たのだろう。しかし現在は、寄付してもらったお金で土地を買ったり家を建てたりする政治家がいる。政治家になることで私腹を肥やしている。支持者がそう望んでいるなどとよくそんなウソが言えると思う。大きな夢を掲げるのはいいけれど、それは政治家本人の夢であってはならないだろう。政治を志す人が見る夢は、あくまでも大多数の人々のためになることでなければならない。先を読みすぎて、民衆が追いついてこないことがあったとしても、そのために多少強引な手段をとるようなことがあったとしても。
私自身は、民衆が追いついてこられないような政策は意味がないと思っている。じっくり待つか、それが出来ないならやめた方が良いとすら思う。今日、会った人は「日本人は馬鹿ばかりだ」と切り捨てるけれど、その気持ちは分かるとしても、それでは何も解決しない。これまでの日本の政治は、小さな町の政治と同じだ。議員は「自分を当選させてくれたならば、自分は一生懸命に地元のために働きます」と唱えて選挙をする。地元の人々は、まず自分たちのところが他に先駆けて舗装されたり、公園が出来たり、清掃されたりと、目先の欲から議員を支持し当選させる。そんな地域や団体のエゴが優先されれば、当然なことだけれど予算は常に膨張せざるを得ない。
こうして、日本では無駄な事業がどんどん行われた。無駄な事業を作り出す人は豪腕な政治家と褒め称えられた。有力議員と言われるのはこういう類の政治家である。これは確かに、有権者もそうした議員を求めたから生まれたので、ニワトリとタマゴのようなものだ。どちらが先と言うわけではなく、戦後の日本はこういう社会であったし、それでまた社会が発展してきたので、誰も疑問を抱かなかった。いや、誰もという表現は正しくないだろう。これは歪んだ社会だと気付いた人はいたし、普通に生活をしていても、おかしいじゃないかと感じた人もいたはずだ。
私も、社会の中の自分を意識できるようになって、なぜ戦争をするのかと思ったし、平等であるはずなのになぜ貧富の差があるのとか、一生懸命に真面目に生きている人がなぜ報われないのかとも思った。私には、人間はいったい何なのか、と永遠につきまとう課題である。「馬鹿ばかりだ」と言った時は、自分を馬鹿だと言っているように思う。そんなことよりも、どうすることが必要なのかと考えることであるし、そのために何をしなければならないかであろう。しかし、もう私に何が出来るのだろう。
戦前の政治家は自分の田畑や家屋敷を失くすくらい政治の理念に燃えた人が多かった。おそらく政治を崇高な仕事と思っていたから出来たのだろう。しかし現在は、寄付してもらったお金で土地を買ったり家を建てたりする政治家がいる。政治家になることで私腹を肥やしている。支持者がそう望んでいるなどとよくそんなウソが言えると思う。大きな夢を掲げるのはいいけれど、それは政治家本人の夢であってはならないだろう。政治を志す人が見る夢は、あくまでも大多数の人々のためになることでなければならない。先を読みすぎて、民衆が追いついてこないことがあったとしても、そのために多少強引な手段をとるようなことがあったとしても。
私自身は、民衆が追いついてこられないような政策は意味がないと思っている。じっくり待つか、それが出来ないならやめた方が良いとすら思う。今日、会った人は「日本人は馬鹿ばかりだ」と切り捨てるけれど、その気持ちは分かるとしても、それでは何も解決しない。これまでの日本の政治は、小さな町の政治と同じだ。議員は「自分を当選させてくれたならば、自分は一生懸命に地元のために働きます」と唱えて選挙をする。地元の人々は、まず自分たちのところが他に先駆けて舗装されたり、公園が出来たり、清掃されたりと、目先の欲から議員を支持し当選させる。そんな地域や団体のエゴが優先されれば、当然なことだけれど予算は常に膨張せざるを得ない。
こうして、日本では無駄な事業がどんどん行われた。無駄な事業を作り出す人は豪腕な政治家と褒め称えられた。有力議員と言われるのはこういう類の政治家である。これは確かに、有権者もそうした議員を求めたから生まれたので、ニワトリとタマゴのようなものだ。どちらが先と言うわけではなく、戦後の日本はこういう社会であったし、それでまた社会が発展してきたので、誰も疑問を抱かなかった。いや、誰もという表現は正しくないだろう。これは歪んだ社会だと気付いた人はいたし、普通に生活をしていても、おかしいじゃないかと感じた人もいたはずだ。
私も、社会の中の自分を意識できるようになって、なぜ戦争をするのかと思ったし、平等であるはずなのになぜ貧富の差があるのとか、一生懸命に真面目に生きている人がなぜ報われないのかとも思った。私には、人間はいったい何なのか、と永遠につきまとう課題である。「馬鹿ばかりだ」と言った時は、自分を馬鹿だと言っているように思う。そんなことよりも、どうすることが必要なのかと考えることであるし、そのために何をしなければならないかであろう。しかし、もう私に何が出来るのだろう。