友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

全ては神様の意思と思えばいい

2010年03月22日 21時29分32秒 | Weblog
 早咲きのさくらが8分ほど咲いていた。もう満開と言ってもいい。それが昨日の強い風に煽られてかわいそうなくらい揺れていた。その場所とは違うが、かなり大きな樹から花吹雪が舞い散っていた。おや、もうさくらが散っているのか、そう思ってよく見ると、それは大きな梅の木だった。強い風に曝されて、さくら吹雪を見るようだった。突然、雨も降ってきた。8分咲きのさくらはどうしているのだろう。冷たい雨の中で、震えているのだろうか。

 昨日は風が強く、時折り雨がぱらつく変な天気だったが、今日はすっかり良い天気になった。鉢植えのチューリップも花が咲きそうになってきた。まだ、茎が伸びていないけれど、それも時間の問題と思われるほど今年は早い。私は選挙に駆り出されて、ゆっくり花たちを見ている時間がないけれど、家の中からでもその成長振りがよくわかる。少し、肥料もやらなくてはならないと思いつつも、実行できずにいる。

 花は正直に生きている。動物も正直に生きている。それでも猿は駆け引きをするそうだから、智恵は、確かに人類の進歩の原動力ではあるが、逆な作用になのかもしれない。ドバイで海洋資源の規制が問題になっている。クジラに続いてマグロが槍玉に上がっていた。「牛や豚は食べてもよいのに、クジラやマグロを問題にするのは文化の違いだ」と評論家が述べていたけれど、それもあるだろうが、クジラやマグロは飼育できない、養殖できないことに問題はあるのかもしれない。海は無限にあるように見えるけれど、いつかは無限の資源ではなくなるだろう。

 鉱物も石油や石炭も、いやそればかりか食料や水が不足する日が必ずやってくるはずだ。昔こんな話を聞いたことがある。池の中の水草は1日に1株が2株に増える。100分の1の時は誰も気にもしなかった。50分の1になっても同じだった。4分の1になった時、いやに水草が増えているなと気にする人がいた。ところが翌日には池の半分が水草で埋まった。これには驚いて、対策会議が開かれた。結論が出ないまま、翌日となったが池全体が水草に埋め尽くされていたと。

 初めのうちはまだまだ先のことだと思っていたのに、事態はあっという間に変わってしまう。今、人類はどの辺りにいるのだろう。我が家によく来る「エホバの証人」の方は、人類の終わりは近いと言う。私も同意する。「だから、神は救いの手を差し伸べておられる」と教えてくれるのだが、「私が救われるか否かは神様が決められることで、私はそれに従うだけです」と答えている。それは茶化しているわけではなく、本当にそう思っているからだ。

 花の中にも豪華なものもあれば、清楚なものもあり、小さなものもあれば大きなものもある。咲いたばかりなのに、強風に煽られて短い命となるものもあれば、ランのように1ヶ月も咲き続けるような花もある。どれがいい花などと、誰も言えない。全ては神様が決められてことだと思えばすごく合点がいく。
コメント
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