友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

強い思いがトラブルを起こす

2010年03月24日 21時30分55秒 | Weblog
 思いが強いほど、トラブルも生まれる。私には中学からの友だちで家に泊まりに行ったし、泊りにも来た仲良が何人かいる。そのうちのひとりには中学の時、助けてもらった恩がある。警察官が取締りをしていたところで、早合点の私は警察官を批判した言葉を吐いた。警察官は怒って私に向かってきた。その時、「こいつに悪気はありませんから」とかばってくれた男だ。そのことを私は一生忘れない。ところがつい何年か前のこと、久しぶりに中学時代の友だち5人で飲んでいた時、彼が「オレをガンだと言いふらして喜んでいる」と言い出した。

 それは彼特有の皮肉だったかも知れないが、私は頭に来た。私たちは友だちのことを心配することはあっても馬鹿にしたり、ましてや他人の不幸を喜ぶような品格のない人間ではない。いくら冗談でも言っていいことと悪いことがある。「取り消さない限り、私はお前と一切付き合わない」と宣言してしまった。友情を信じればこそ、その思いは強く、思いが強いほど相手を受け入れる余裕がない。あいつも頑固だけれど、私もその点ではどうしようもない頑固である。

 選挙で、無報酬で働く人は、候補者に惚れ込んでいるから出来るのであって、そうでなければ馬鹿馬鹿しくてやっていられない。ところが、思いが強いが故にトラブルが起きることがある。私に言わせれば、「年上の方なのだから、ハイハイと聞いておけばいい」と思うのだけれど、それが出来ない人もいる。それは選挙にかかわらず、あらゆるところでよく起きることだ。職場であれば利害が一致しているから、どちらかが折れることでも、選挙のような無報酬で働く場合は、「どうしてこんなに思っているのに、理解してくれないかの」という気持ちのズレが生まれてしまう。

 言葉の一つひとつに、いちいち腹を立てていたら、本当に一致協力しなければならない時に、力にならない。ここはそう理解できる方が「ハイハイ」と引き下がらなければならない。自我を押し通してみたところで、どれほどの益があるというのだ。人間はなかなか自分を押さえ込むことは難しい。どうしても相手が悪いと決めたがる。私もそろそろ中学時代からの友だちと和解し、一緒に酒を飲み交わしたいと思っているのだけれど、なかなか自分から頭を下げることが出来ないでいる。

 カミさんや子どもたちは私を思い込みの激しい人と思っているようだが、自分でもハズれてはいないと思うようになった。好きになると勝手にどんどんと深みにはまっていくのもこうした思い込みの激しさのせいかもしれない。私自身はそれでよいとしても、そう思い込まれた人は気の毒としか言いようもない。さて、どんな風に人は思い込みを修正していったらよいのだろう。
コメント
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