友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

古代ユダヤ人の人間観察

2018年07月26日 18時14分08秒 | Weblog

  オウム真理教の残る死刑囚の刑が執行された。私は人の命を人は奪うことはできないと考える人間なので、残念に思う。それにしてもオウム真理教とは何であったのだろう。どうしてあんなに高学歴の若者が信仰に走ったのだろう。連合赤軍事件もそうだったが、ひとつにまとまろうとすると、「殺す」ことさえ厭わなくなる。人間はとても恐ろしい。

 曾野綾子さんの『イエスの実像に迫る』は、古代イスラエルの風習が詳しく書かれている。ユダヤ人はペルシャ人やエジプト人の奴隷になっていたこともあり、ユダヤの風習を頑なに守り、しかもそれを細かく記していた。彼らは人間をよく観察していたからこそ、「教訓」を導きだしたのだろう。旧約聖書はそんな教訓集と言えるのかも知れない。

 彼らは「人間には4つの型がある」という。1番は「わたしのものはわたしのもの、あなたのものはあなたのもの」。2番は「わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのもの」。3番は「わたしのものはあなたのもの、あなたのものはあなたのもの」。4番は「わたしのものはわたしのもの、あなたのものもわたしのもの」。1番は平均的な人、2番は地の民、 3番は敬虔な人、4番は悪人という。

 ユダヤでは施与は義務だった。その施与についても4つの型があるという。1つは「施すことを望みながら、他の人が施すことを望まない人」。2つは「他の人が施すことを望んでも、彼は施さない人」。3つは「彼も施し、他の人も施すことを望む人」。4つは「彼は施さず、他の人も施さないことを望む人」。1の人は他の人のものに対して邪悪であり、2の人は自分のものに対して邪悪である。3の人は敬虔な人で、4の人は悪人という。

 ユダヤ教もキリスト教も、神と自分の関係を知ることにある。オウム真理教がどのような教えなのか分からないが、仏教の言葉が多く使われているから、現世と自分を「悟り」、「自分を変えるれば世界も変わる」と考えたのだろうか。古代ユダヤ人のようにもう少し人間観察ができていれば、「ポア」などに至らなかったのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする