三島由紀夫が割腹自殺を遂げたのは長女が生まれた年で、日に日に成長する様子を愉しんでいたので、多くのニュースの1つでしかなかった。大人がまるで軍服を着て、ごっこ遊びをしているとしか思えなかった。彼が何をしたかったのか、どうしてそうなったのか、考えることもなかった。
むしろ東大をはじめとする、全国の大学で起きていた全共闘運動が、何を切り拓くのかに関心があった。警察官だった義父がテレビの山本義隆を見て、「こいつは本物だな」と言っていたことをよく覚えている。しかし、全共闘運動は内ゲバを繰り返し終息していった。
三島由紀夫はなぜ東大全共闘との討論の場に出向いたのか、そこで何がやり取りされたのか、ドキュメンタリー映画を観たいと思う。昨年は没後50年ということで、三島由紀夫の文字が新聞や雑誌に溢れていた。『芸術新潮』12月号は、「21世紀のための三島由紀夫入門」だった。『金閣寺』と『仮面の告白』を読んでみたい衝動に駆られた。
『金閣寺』を読んでみると、文章の難解さや読めない漢字に悩まされたが、どういう訳かどんどん読めた。けれど、4日のブログにも書いたが、引き込まれていくので怖くなって中断し、一息置かないと進めなかった。主人公の狂気が自分に乗り移ってくるというか、ひょっとしたら自分も彼と同じ体質ではないかと不安になった。
こんな歳になって、青年と同じように、現実と理想、正気と狂気、清貧と欲望、そんな矛盾に振り回されるとは思わなかった。老人になれば、泰然自若とした確固たる信念に辿り着けると思っていた。神はいつまで試練を与えるのだろう。「死ぬまでと決まっているじゃーないか」と先輩に叱られそうだ。