私の大学の先生の奥さんが亡くなって、今日、その葬儀に参列させていただいた。
私が小学校へ入学したばかりの春、城跡の公園は桜が満開で、いつも桜祭りが行われる。小学生の写生大会はその行事の一つで、私の絵を見た担任が母に「この子は先生について絵を習わせるといいよ」と言ったようだ。母はきっと「天分がある」と思い込んだのだろう、翌年から中学校で美術を教えていた先生のところに通うことになった。先生の家は公園のそばにあり、家柄はこの地の家老職であったと聞く。
先生のお父さんは政治家で、私の祖父が町議会議員を務めたこともあったためか普通に話してくれたので、気難しい人というよりも、優しい人という印象の方が強い。先生の奥さんは岩手県盛岡の人で、目鼻がハッキリしていて、外国人のような雰囲気のある人だった。冬には部屋にあった大きなストーブでイモなどを焼いてくれた。身体が弱い人だったと、挨拶の中で言われていたが、私はハキハキしていて、活発なお嬢さん育ちの人という印象だった。とにかく世話好きで、面倒見のよい人だった。
先生は大学の先生になっていた。私は高校生の時に両親をなくしていたので、お金のかからない大学を受験せよと兄貴から言われ、先生の大学に入学した。20歳の時に我が家は破産し、それぞれが別々に暮らすことになった。先生と奥さんは私を先生の家のそばの、誰も住んでいなかった親戚の家に住むようにしてくださり、先生の子どもたちの勉強を見たり、先生の家の車の運転をしたり、掃除や片付けなど、書生として働かせてもらった。食事も家族の皆さんと一緒にいただいき、本当に家族の一員のような暮しだった。
先生は絵描きで、奥さんはマネージャーだったのかなと思う。先生が海外へ行く時、その資金調達のために、町の有力者のところへ絵を持って行った。お金の話はなかったように思ったけれど、あれでお金が集まったのだろうかと不思議だった。先生がイタリアから帰国された時、学生たちも呼ばれて、庭でパーティーが開かれた。先生が「スパゲティをご馳走してやる」と言って、うどんをゆでて、ケチャップやマヨネーズであえてくれた。スパゲティなどというものは食べたことがなかったので、これがスパゲティかと思ったが、その後、スパゲティが普通に食べられるようになり、あれはやはりうどんだったことを知った。
先生も奥さんも人が集まることが好きだったから、よくいろいろな人が家に出入りしていた。先生はでっかい身体の人だったが、いつも気配りを忘れなかった。私が結婚する時、仲人を先生ご夫妻にお願いした。自分が仲人をするようになって知って恐縮したが、先生には何もお礼をしなかったばかりか、奥さんが例の調子で、「ヨシヒコちゃん、これ持っていきなさい」と言われ、ありがとうございますともらったものは、洋食器の豪華なセットだった。今も大事に使わせていただいている。
奥さんの遺影は、とてもよく撮れていた。二人の子どもたちは、先生に生き写しになっていた。祭壇の中に、奥さんの若い時の写真が1枚飾ってあった。おそらく20代の写真だろう。溌剌として、輝いている。そういえば、お二人がどこでどのように出会ったのか、余り聞かなかったことが残念だ。どのような出会いがあったか知らないが、二人が恋愛で結ばれたことは確かだろうし、お互いを必要としていたことも確かだと思う。奥さんはモディリアーニのモデルのような人だったから、モディリアーニのような画家とモデルだったかもしれない。
先生は由緒ある家柄のおぼっちゃんではあったが、優しい人だった。そこそこに駆け引きもできたし、はったりも言える人だった。私が大学4年生の時に、先生から「東京へいけ」と言われて出かけた。先生としては、編集者希望の私を東京の出版社に入れてやろうという配慮だったが、結果的には私は好きだった女の子のところに逃げ帰ってきてしまった。東京にいながら、学校の試験は受けに帰ってきていたし、こちらで教員採用試験も受けていた。それをしていなければ、きっと東京人になっていたかもしれない。今から思えば、東京で暮らすことよりも、好きな人と一緒にいたかったのだろう。
でも結局は軟弱だったとしか言いようがない。いつも、夢は追い求めるが自分をゼロにするだけの勇気は私にはなかった。どこかで、安住な地を求めていたように思う。好きな女の子が競合の対象であれば、なんとしてでも手に入れたいという気持ちはあったが、自分の将来について、ゼロになるかもしれないというような大きな賭けの時は、よりリスクの少ない方を選んでしまったのではないか。今更、反省したところで何になるというものではないが、葬儀に参列していて、ふと自分の人生を振り返る機会に出会った。
先生、いつもありがとうございました。お心に応えられず、申し訳ありません。合掌
私が小学校へ入学したばかりの春、城跡の公園は桜が満開で、いつも桜祭りが行われる。小学生の写生大会はその行事の一つで、私の絵を見た担任が母に「この子は先生について絵を習わせるといいよ」と言ったようだ。母はきっと「天分がある」と思い込んだのだろう、翌年から中学校で美術を教えていた先生のところに通うことになった。先生の家は公園のそばにあり、家柄はこの地の家老職であったと聞く。
先生のお父さんは政治家で、私の祖父が町議会議員を務めたこともあったためか普通に話してくれたので、気難しい人というよりも、優しい人という印象の方が強い。先生の奥さんは岩手県盛岡の人で、目鼻がハッキリしていて、外国人のような雰囲気のある人だった。冬には部屋にあった大きなストーブでイモなどを焼いてくれた。身体が弱い人だったと、挨拶の中で言われていたが、私はハキハキしていて、活発なお嬢さん育ちの人という印象だった。とにかく世話好きで、面倒見のよい人だった。
先生は大学の先生になっていた。私は高校生の時に両親をなくしていたので、お金のかからない大学を受験せよと兄貴から言われ、先生の大学に入学した。20歳の時に我が家は破産し、それぞれが別々に暮らすことになった。先生と奥さんは私を先生の家のそばの、誰も住んでいなかった親戚の家に住むようにしてくださり、先生の子どもたちの勉強を見たり、先生の家の車の運転をしたり、掃除や片付けなど、書生として働かせてもらった。食事も家族の皆さんと一緒にいただいき、本当に家族の一員のような暮しだった。
先生は絵描きで、奥さんはマネージャーだったのかなと思う。先生が海外へ行く時、その資金調達のために、町の有力者のところへ絵を持って行った。お金の話はなかったように思ったけれど、あれでお金が集まったのだろうかと不思議だった。先生がイタリアから帰国された時、学生たちも呼ばれて、庭でパーティーが開かれた。先生が「スパゲティをご馳走してやる」と言って、うどんをゆでて、ケチャップやマヨネーズであえてくれた。スパゲティなどというものは食べたことがなかったので、これがスパゲティかと思ったが、その後、スパゲティが普通に食べられるようになり、あれはやはりうどんだったことを知った。
先生も奥さんも人が集まることが好きだったから、よくいろいろな人が家に出入りしていた。先生はでっかい身体の人だったが、いつも気配りを忘れなかった。私が結婚する時、仲人を先生ご夫妻にお願いした。自分が仲人をするようになって知って恐縮したが、先生には何もお礼をしなかったばかりか、奥さんが例の調子で、「ヨシヒコちゃん、これ持っていきなさい」と言われ、ありがとうございますともらったものは、洋食器の豪華なセットだった。今も大事に使わせていただいている。
奥さんの遺影は、とてもよく撮れていた。二人の子どもたちは、先生に生き写しになっていた。祭壇の中に、奥さんの若い時の写真が1枚飾ってあった。おそらく20代の写真だろう。溌剌として、輝いている。そういえば、お二人がどこでどのように出会ったのか、余り聞かなかったことが残念だ。どのような出会いがあったか知らないが、二人が恋愛で結ばれたことは確かだろうし、お互いを必要としていたことも確かだと思う。奥さんはモディリアーニのモデルのような人だったから、モディリアーニのような画家とモデルだったかもしれない。
先生は由緒ある家柄のおぼっちゃんではあったが、優しい人だった。そこそこに駆け引きもできたし、はったりも言える人だった。私が大学4年生の時に、先生から「東京へいけ」と言われて出かけた。先生としては、編集者希望の私を東京の出版社に入れてやろうという配慮だったが、結果的には私は好きだった女の子のところに逃げ帰ってきてしまった。東京にいながら、学校の試験は受けに帰ってきていたし、こちらで教員採用試験も受けていた。それをしていなければ、きっと東京人になっていたかもしれない。今から思えば、東京で暮らすことよりも、好きな人と一緒にいたかったのだろう。
でも結局は軟弱だったとしか言いようがない。いつも、夢は追い求めるが自分をゼロにするだけの勇気は私にはなかった。どこかで、安住な地を求めていたように思う。好きな女の子が競合の対象であれば、なんとしてでも手に入れたいという気持ちはあったが、自分の将来について、ゼロになるかもしれないというような大きな賭けの時は、よりリスクの少ない方を選んでしまったのではないか。今更、反省したところで何になるというものではないが、葬儀に参列していて、ふと自分の人生を振り返る機会に出会った。
先生、いつもありがとうございました。お心に応えられず、申し訳ありません。合掌
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