友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

戦争と日本人の不思議

2014年08月15日 17時37分45秒 | Weblog

 玉音放送は昭和20年8月15日の正午、天皇が直接国民にラジオで話されたもので、無条件降伏を通告したポツダム宣言を受託するというものだ。昭和19年生まれの私がその放送を聞いたのは、何かの映画の場面であったと思う。天皇の声は聞き取りにくく、何を言っているのかよく分からなかったけれど、「堪え難きを堪え、忍び難き忍び」というくだりはよく覚えている。

 私がものごころつく頃はもう食糧難ではなかった。朝鮮戦争が始り景気はよくなっていた。人々はよく働き、年々生活も良くなっていた。戦争映画も作られ、祖母に連れられて見にいったけれど、古参兵が新兵を殴る場面ばかりだった。小学校の高学年になり、なぜ戦争が起こりなぜ負けたのかと思うようになった。小学校の頃に読んだ伝記では、ヒットラーもムッソリーニも貧しさや不平等から国民を救う英雄であった。

 そのふたりは亡くなった。日本の戦争責任者は誰なのだろう、どう責任を取ったのか、関心があった。戦争の原因についてはいろいろ言われているが、ドイツもイタリアも日本もイギリスやフランスやオランダに遅れていて、再分割を求めたと言われている。「自衛のための戦いだった」という説もここにある。だから一気に決着をつけたかったが、陸軍上層部は勝手に戦線を拡大してしまったというのが定説だ。

 では誰がどのように戦争責任を取ったのか。戦地で亡くなった兵士の6割が餓死だったのに、「聖戦」とか「英霊」と美化し、無謀な作戦を強行した軍部をなぜ非難しないのか。「特攻」のような死ぬためだけの戦いを「神風」と名付け、民間人まで巻き込んで全員が死ぬまで戦わせて「玉砕」と美化した。「一億総特攻」と女子どもまでもが口にし、そうでなければ「非国民」と非難した。

 無駄死にと知りながら、なぜ人はそれを受け入れたのだろう。それは、戦果らしい戦果を挙げることなく撃沈された世界一の戦艦の物語『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)に出てくる。自らの死の意味を巡り士官たちが論ずる中、「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本は救われるか、おれたちはその先導になるのだ、日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃーないか」と上官が言い、みんなが納得する場面だ。

 「みんなで渡れば恐くない」と同様に、日本人は心をひとつにすれば成就できると考える傾向が強い。それは個人の責任よりも連帯を重んじる。個人の死はあくまでも全体のためだ。だから、東条英機が陸軍大臣の時に出した『戦陣訓』「生きて虜囚の辱めを受けず」は、兵士だけでなく、女子どもにまで浸透した。ところが敗戦になっても東條も天皇も自決しなかった。不思議な日本人だ。

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