友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

祖父の存在は反面教師だった

2013年11月08日 20時07分48秒 | Weblog

 鉢の土の入れ替えを行っていた時、遠い昔、まだ私が子どもの頃のことを思い出した。祖父は材木屋を営んでいた。14歳年上の姉の話では、初めは大工だったそうだ。祖父が建てたというお寺の山門が残っているし、妹が通った小学校の建築にもかかわっていたという。私が知っている祖父は材木屋の事務所で苦虫を潰したような顔で座っている姿しかない。祖父に怒られた腹いせだったのか、事務所の土壁を私は削り取ってしまった。

 祖父は怒って「コイツは末恐ろしい坊主だ」と言い、母が私の代わりに謝って、落ちた土を水でこねて、削ったところを塞いでいた。祖父は苦労して大きな材木屋を起こしたのに、長男である父は跡継ぎにならず、小説家を目指して学校の先生になったので、祖父と父は仲が悪かった。文学とは全く縁のない人で、毎晩、私たちの食事の前に2合ほどの酒を飲むが常だった。祖父だけがどうしておかずが1品多いのか、私は不公平だと思っていた。

 何かにつけて、私は祖父に叱られることが多かった。食事は家族みんなでするが、煮魚とかはそれぞれの皿に盛られているからいいが、年に何回か、祖母がすき焼きをやってくれた。初めの1杯は祖母が分けて入れてくれるが、2杯目からは中央に置かれた鍋から、みんながそれぞれ箸でいただく。私はつい肉が食べたくて、鍋の中の肉を探して皿に運んでしまう。そんな時はいつも祖父から「肉ばかり食うもんじゃーない」と叱られた。

 全然民主的ではないじゃーないか、祖父の存在は幼い私には反面教師だった。それなのに、小学5年の時の「敬老の日」に、町で一番美味しいと言われた和菓子屋さんへ出かけていって、一番大きな最中を買って来て、祖父母にプレゼントした。祖父がそれを食べたかどうか知らないが、そりの合わない祖父であっても、年配者としての敬意は持っていたのかも知れない。食事の時は祖父母、兄夫婦とふたりの子、私と妹、そして父と母の10人だったのに、ほとんど何も会話はなかった。

 家族の団欒とは程遠かった。家父長制度が歴然と残っていた。

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