友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

孫娘の食事会

2008年03月20日 19時27分41秒 | Weblog
 中学1年の孫娘が、「もうすぐ1年生が終わるので、クラスの女子でお別れ会をやろうということになったのね」と話す。母親たちが、打ち上げ会だの食事会だの、いろいろな名前をつけてみんなで集まって騒いでいるのを見ているから、そんなことを考えたのかもしれない。「でも、ママ許してくれるかな」と心配する。

 その彼女の心配が的中した。目を真っ赤にして「ママ、ダメだって」と言ってきた。「でもさ、提案したのはあなたなんでしょう?そのあなたが行かないのではみんなに悪いじゃーないの?」と聞くと、「言い出したのは私じゃない。誰かわからないけれど、みんなで行こうとなったの。でも、もういいの。ママがダメと言うのだから、みんなには私が謝る」と言う。

 出かけることが悪いことなら、友だちも行かせないのが正しい判断だと思うけれど、友だちが行くのは仕方ないが、孫娘が行くのはダメというのは、私には理解できない。「ママはどうしてダメだと言うの?」と聞いてみた。長女が子どもの頃は、かなり遠い祖母の家の近くの公園まで、友だち何人かと自転車で出かけていた。今回のように、みんなで食事会に行くことはなかったけれど、やりたいという事は結構大目に見てきた。私がダメと言ったは、友だちの家に泊まりに行くことだけだ。相手の親に負担をかけることは避けたかったからだ。ところが母親の立場になると違うもののようだ。

 「ママは、自分で働いてもいないのに、お金を遣う食事会はダメということと、12・3歳の子どもばかりで出かけることをよいとは思わないと、言っていた。私もそう思うからそれでいいの」と答える。確かに働いていないが、働かせてはいないのだから当然だ。けれどもみんなそれぞれに小遣いやお年玉で、自分が遣えるお金は持っているだろう。それを遣ってはダメというなら、彼女たちは何も買えない。12・3歳の女の子ばかりで、食事のためにお店に出かけるのは、やはり不安はある。

 学校が、「子どもばかりで出かけてはいけません」と言うのはなぜなのだろう。出かけていって、何かトラブルが起きた場合、学校は何をしていたのかと世間はすぐに問題にする。そこで学校は、「学校以外の場で起きたことに、学校に責任はありません」とはっきり宣言すればよいのに、非難を恐れてそれを言わない。言わない代わりに、「子どもだけで出かけてはダメだ。出かける時は親と一緒に」と指導する。これは、責任は学校ではなく親にあること、つまり責任論から逃れるためである。

 学校以外のところで何かが起これば、責任は当然親にある。子どもだけで出かけようと、親が責任をきちんと引き受ければすむことではないか。それを親の方が「学校は何をしていたのか?」と、あたかも学校に責任があるような言い方をするから、学校としては「親と一緒でなければダメ」と言わざるを得ない。親の無責任さこそが学校を本当に悪くしていると思う。

 こうなれば、ジジババの出番である。「私たちもそのお店でお昼を食べることに決めた。それなら、出かけてよいか、ママに聞いてみたら」と話す。すぐに笑顔になって「ありがとう。ママはいいって!」とみんなとの待ち合わせの場所へと出かけていった。既に何人かの女の子たちが、それぞれにしかしまあ似通った服装で集まっていた。こんな風に少女となり大人の女性になっていくんだなあーと思った。
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カレイの煮付け

2008年03月19日 19時09分13秒 | Weblog
 昨日は議員時代の仲間と日間賀島へ、1泊の懇親会に出かけた。私が一番若いから幹事役を務めることになった。1年に1回、こうして日間賀島へやってきて、美味しい海の幸をいただき、若いコンパニオンのお酌でお酒を飲むのだが、昨夜は大いに盛り上がったようで、今朝の請求書を見たら酒代が一人分の宿泊代よりも多かった。まあそれだけ楽しかったということだろう。

 議員だったから、どうしても現在の政治の動きが話題になる。その結論は「もう、どうしようもないな。こんな馬鹿気たことをやったんじゃー、税金も納めたくないし、見たくもない」と、なってしまう。「いやいや、そうやって皆さんが、政治に関心を示さないから、こんな結果を招いてしまったで、いくらリタイアしたからって、もう知らんとは言ってはならんのですよ」「それはそうだが、有権者はどうしてもっと賢くならんのかね」。そんな話の堂々巡りだが、気兼ねなくそんな話ができるのも、一緒にやってきた仲間だからだ。

 「楽しく酒が飲めることが一番」と最長老は言う。「議員の時は議会が無い時に、議員を辞めてからちょくちょくと、家内と一緒に旅行するんだけれど、せっかく旅行に来てもおもしろくない」「どうして?」「第1にアレは酒が飲めん。第2になかなか感動を共有できん」「ほー、なぜ?」「ワシが『ほれ見てみい!』とキレイだなと思う景色を見せてやっても、ぜんぜん反応が無い」「そりゃー寂しいね」「パリに行った時も、ムーラン・ルージュへ連れて行ってやると言うのに、そんなストリップを見るのはイヤだと言う。馬鹿言え、素晴らしいからとにかく観てみよと連れて行ったけど、ホントに感動がない」

 まあ、女房の悪口をつまみにして、お酒を飲むのもこうして男ばかりでやってきたからだ。カミさんを嫌っているわけではないし、食べ物の相性が合わないとしても、ちょっと寂しいと思うだけで、不満があるわけではない。頼りにしているし、頼りにもされている。長い間、夫婦をやってきたのだから、こんなものなのだろう。

 宿に漁師がやってきて、「石油の値上げで漁師なんかやってられん」とぼやく。「漁師は1年に百日くらいしか働けん。漁に出て、魚獲って、売り上げが2百万ありぁー、重油の代金を引いて、4人なら4人で、あるいは5人なら5人で分けちゃう。網や船が使えんくなることまで考えとやせん。そだで、いつも火の車だわサ」と日本の漁業の現状を聞く。

 結局、漁から帰ってきたばかりだというその漁師から、カレイを買うことにした。家に帰ってすぐにカレイを煮た。今晩はカレイの煮つけでまた一杯となった。
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みんな輝いてる

2008年03月18日 13時24分59秒 | Weblog
 電車、特に通勤電車のように向かい合う座席の時には、たくさんの人を見ることができるので、つい人間観察をしてしまう。でんと大きく足を広げて座っている中年男性は、職場でもやり手の管理職なのだろうか。とにかく部下にはうるさく威張るタイプだろう。その隣のメガネの女性は、単行本を読んでいるから、マイペース型のOLで、化粧も余り濃い方ではないから、おとなしく与えられた仕事をテキパキやる方だろう。20代後半の独身というところかな。

 正面の女性は若いのに厚化粧で、ケイタイとにらめっこしてやたらと親指を動かしているから、メールでも打っているかゲームでもしているのだろう。ミニスカートで足を組むので太ももまで見えてしまっているが、胸元のピンクの肌も見せているから、見せることに関心があるのかもしれない。若さに自信があるのだろう。おばさんは大方居眠りをしている。疲れが溜まっているばかりか、既婚者だからと人の目を気にしなくなってしまっている。

 若い男というのはどうしてこんなに人に対する思いやりに欠けるのかと思う。大きなバッグやカバンを平気で座席に乗せるし、イヤホーンで音楽を楽しむことに文句は言わないけれど、4メートルも離れているのにドラムの音がこちらまで聞こえてくる。耳の鼓膜がおかしくなってないかと心配にもなる。それに、あなた方若い人の足が長いことは充分承知しているつもりです。それなのに、わざわざ、座席に寝そべるように座るから、その長い足が通路にはみ出している。

 お年寄りが乗り込んできても、ガンガンの音楽と寝た振りで、決して目を開けようとしない。女子高生は相変わらずミニスカートなのに、わざとのように足を広げて挑発する。体操の時のパンツを穿いているから平気だというのだが、女としての売りがそんなものしかないことが情けない。目つきの悪い男は、何を考えているか無気味だ。目つきが悪いというだけでもう充分怪しい奴と思えてくる。

 一番端に座っている中年女性は、満たされた生活を送っているのだろう。デパートの紙袋を二つも抱え、生活のたくましさも伝わってくる。色白でぽっちゃりしているけれど、若い時は相当キレイだったに違いない。幸せ太りなのか、ふっくらした感じがいい。頭の中はダンナのことや子どものことしかないのだろう。

 人にはそれぞれの人生があり、十人いればやはり十色の輝きがある。美しいか醜いかは見る側の主観であり、人の生き方までどうこうと言うことはできない。みんな自分の人生を一生懸命生きているし、それぞれに輝いている。輝きのない人生なんて無いと私は思っている。
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水を得た魚

2008年03月17日 21時33分55秒 | Weblog
 暖かな一日だった。庭で鉢に水をやったり、雑草を抜いたりしていると、汗ばんでくるほどだった。チュリップもすっかり芽が出てきて、水を欲しがっている様子だった。パンジーも根元に新しい葉がたくさんでき、寒さに耐えてきたエネルギーがこれからいっきに伸びてきそうだ。

 昨日姉を迎えに行く途中で、川の堤や畦道で、子どもたちや親子連れが土筆とりをしている光景を見た。例年なら、3月の中旬頃にぞっとする寒さがやってくるのに、今年はこのまま春爛漫を迎えそうな具合だ。寒いよりは暖かい方がよいのだろうが、こんなに暖かくなると寒さも少し恋しい気がする。

 孫娘が学校から帰るなり、大変なご機嫌だ。生徒会の役員選挙に立候補し、金曜日の投票の結果、当選したというのだ。私の孫娘とは思えないくらい彼女はよく努力する。先生から立候補してはどうかと言われ、「自分がこれがしたいというものがなければ、立候補しても仕方ないでしょう」と考えた末、「学年を超えた生徒の交流を行うことを考えるわ」と、立候補を決めた。

 それから、立会演説の原稿を書き、例の調子で午前零時に寝て、午前4時には起床し、ポスターを作り、宿題をやり、学校へ出かけたという。演説の原稿はよく書けていると思ったが、やはり「先生から『具体性が欲しい』といわれたけど、どうしよう?」と相談してくる。何度も手直しをして自分でも納得のいくものができたようだ。それでも、「本番ではトチッテしまった」とべそをかく。

 野心だけは一人前に持っていても、努力もせずにそうならないかと望む私のような怠け者と違い、孫娘は母親の「努力すれば必ず結果がついてくる」と呪文をかけられ、ひたすら努力する姿には感心する。我が家に女王蜂の血を持った働き蜂が新しく生まれたような思いだ。孫娘の母親も学生時代と大違いで、なにやら全国で何人しかないという資格に挑戦している。それが孫娘には大きな刺激となっていることは確かだ。

 「水を得た魚」というけれど、自分が生かされている場所では人は何倍もの力を発揮するようだ。そういう巡り合わせというか、きっとそれは、自分は運がないと嘆いてばかりいる人には見えないから、当然出会わないともいえるが、そういう意味ではやる気のある人には、やる気が発揮できる場所が生まれるものだと思う。

 出会いがよければ、人はどんどん充実していく。ただし、出会いは待っていたのではやってこない。金美齢さんが言うように、チャンスはつかもうとしなければつかめないのである。年老いた私としてはこんな評論しかできない。
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私の姉のこと

2008年03月16日 23時08分20秒 | Weblog
 有松開村400年記念行事の一つ、竹澤恭子コンサートに行ってきた。私は子どもたちにヴァイオリンを習わせていたが、自分は音楽が好きな割りに全く音楽に疎い。中学生の時、級長・副級長を集めてブラスバンド部が作られ、私も何がなんだかわからないままに、大太鼓の係りとなった。ブラスバンドの顧問が放送部の顧問も兼ねていたことから放送部にも属すことになり、この時、部屋にあったレコードを片端から聴いたことが、自分の音楽の基礎になったと思う。

 竹澤さんというヴァイオリン演奏者は初めて聞いたが、なかなかの人だと思った。演奏曲はかなりポピュラーではないヤナーチェクで始まった。きわめて現代的なそれでいて重々しい曲だった。竹澤さんという人はこういう曲が得意なのかと思った。2部からはヴァイオリンとチェロとピアノの三重奏だったが、特に、最後の曲は竹澤さんのヴァイオリンとウェン・シン・ヤンのチェロがまるで男と女の恋のようだった。

 チェロが叫ぶとヴァイオリンが後を追い、追いつかず離れず、求愛の演舞であり、男と女の営みのようでもあった。竹澤さんがウェンさんを、ウェンさんが竹澤さんを見つめながら、クライマックスを迎えるから、私にはよりそんな風に思えたのかもしれない。ヴァイオリンの演奏を聴きながら、こんな風に感じたのははじめてのことでもある。

 カミさんが昨日から、ひどく咳き込み、熱もあって、とてもコンサートには行けそうも無いというので、姉に電話したらぜひ聞きたいというので一緒に出かけた。私の姉だけあって、やれピアノの音が大きすぎるだの、竹澤さんの衣装が地味すぎるだの、うるさいことを言い過ぎる。それでも久しぶりに二人だけで出かけたので、いろいろ話せてよかったと思っている。

 姉は秋川雅文のフアンで、大阪や東京まで追っかけていく。78歳になるのにすこぶる元気なことが唯一ありがたいと思う。姉の友だちに、50年もの間、不倫を続けている人がいるそうだ。今は、男の方が妻を亡くし、息子夫婦と暮らしているのだが、姉の友だちである彼女は食事を作ってその男のもとに通っているのだそうだ。息子の嫁は、彼女が現れると「ごゆっくり」と言って、どこかに行ってしまうそうで、姉の友だちは「こんなボケた人をわたしに押し付ける」とぼやいているとも言う。

 私の姉は離婚の経験があり、その後に親しい男がいたから、少なくとも二人の男の肌を知っているはずだが、姉の友だちのことを「50年も付き合ってきながら、他にも付き合った男がいるのよね」などと話す。そしてまた、「瀬戸内寂静を知っているでしょう。死ぬまで恋をしなさいといっている」とも話す。「瀬戸内さんは、男を断ったけれど、だから体の関係はもうないけれど、好きになった男は数え切れないと言うのよ」と。

 そこで私は、姉も知っている中学高校の友だちが、12年間も友だち以上恋人未満を維持してきた話をすると、「そんなのはありえないね。もしそうなら、女の気持ちが全然わかっていないね」と言い切る。なるほど、そうなのかと78歳になる姉をチラッと見直した。
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誰もわかっていない

2008年03月15日 22時51分57秒 | Weblog
 娘たちは白馬にスキーに出かけた。我が家は私とカミさんの二人だけになった。カミさんは一昨日からゴホン、ゴホンとやっていたと思ったら、熱が出て「アカン」と臥している。どうやら、2月から出かけていた学校で子どもたちから風邪菌をもらってしまったようだ。孫娘も娘もいないのだから仕方がない、今晩の夕食は私が作らなくてはならない。

 冷蔵庫を見ると、お酒のつまみになるようなものしか残っていない。そんなもので、おかずを作り、一杯飲んでブログに向かっているから、何をやっているのか怪しいものだ。友だちのブログを見ていたら、“みんなわかっていない”ということが書かれていた。私が昨日、ブログを書き終わったのは午後11時過ぎだから、彼は私のブログを読んでからではなく、彼自身の心情の吐露というべきものだと思う。彼は次のように書いていた。

“誰も分っていないんです。男と女の友だちというものが、いわば、男と女のユニセックスの関係が、誰も全然分っていないんです。多分、ありふれた男と女の皮相しか見ていないと思うのです。その先にある人間と人間の友情を、誰も分ろうとしないんです。

 今いちばん、二人にとって悲しむべきことは、男と女の関係ができなかったことじゃなくて、悲しい辛い思い出が残ることでもなくて、何も思い出として残らないことが、いちばん悲しいことなんです。心動かす思い出作り、人と人が出会うとはそういうことなんです。

 12年間のあなたとの思い出は、数え切れないほど、私の胸に詰まっています。
忘れるはずはないんです。あなたとの思い出の日々を。だから私は、本当に幸せなんです。”

 私は彼のこの言葉を何の疑いもなく真実だと思っている。昔から、彼はヘナヘナしているくせに純粋だった。彼はユニセックスを大事にしてきたと私も思っている。ただ私には、なぜユニセックスでなければいけなかったのか、彼がそう望んでいたのか、それとも彼女がそう望んでいたのか、二人ともそう望んでいるように演技していたのか、もう、残りいくばくもないのだから、正直になってもいいのではないのか、そんな気がする。

 そんなことを言うと、彼が本当は彼女と肉体的にも一体となりたかったのだというように聞こえてしまうけれで、そう言いたくないけれど、彼が心の底で何を望んでいたのか、正直に知りたいとは思う。

 先日、川端康成の『眠れぬ美女』を基にしたドイツ映画を観てきたけれど、眠っているだけの少女に触ってみたいとは思わなかった。できることなら、生きている人と「恋」をしていたいと、私は思った。私も彼のように、彼女とのたくさんの思い出があればそれでいい、そう思いながら、いいや思い出というような形ではなく、チャタレー夫人のような見えるものが欲しいと思ってしまう。そこが彼の純粋さと比べて、私の世俗的な欲望の強さというか醜さだと思う。

 『眠れぬ美女』の少女たちは、確かに美しかったけれど、美しいだけに、彼も私もそれだけでは心奪われないだろうと思う。
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消してしまいたい過去

2008年03月14日 23時12分10秒 | Weblog
 「消してしまいたい過去はありませんか?」。私はたくさんの過ちを犯してきてしまった。あの時、ああしなければよかったなどということは数え切れないくらいある。しかし、だからといって過去を消してしまいたいとは思わない。今、ここにいる自分は、間違いなくたくさんの過ちを犯したために、その結果として存在している自分である。

 「消してしまいたいとは思わないけど」と、答えると、「完璧に生きてこられたのですね」と言われる。とんでもない。いつもいつまでも不完全で、悔しい思いばかりだ。そればかりか、人を恨んだこともある。こんな目に合わせたと人のせいにして、その人を恨んだ。結果がうまくいかないと、自分を責めずに人のせいにして呪った。自分が努力しなくてはならないのに、ほかの人や時流のせいにもした。

 実直に生きようとはしたけれど、そうでなかったことは自分自身が一番よく知っている。恥ずかしい人生だし、生きていくことは「恥の上塗り」のようなものだと知った。だから、決して自慢できるような人生ではない。それでも「過去を消してしまいたい」とは思わない。そんなことをしてしまったら、自分が自分でなくなってしまうような気がするのだ。

 「消してしまいたい」人は、よほど苦しいことや嫌なことや耐えられないことなど、思い出したくないつらいことがあったのだろう。そうしたことが私に全くないわけではないけれど、私はいつも「選択したのは自分なのだから素直に受け止める以外にない」と考えるようにしてきた。運命は定まっているのかもしれないし、私自身はそうだろうと考えてはいるが、だからこそ精一杯に生きていきたいと思う。

 生きていくことはつらいことが多い。けれども、つらいこと以上に楽しいことがたくさんある。いや、楽しいことをたくさん創っていけば、生きていること自体が楽しくなる。ここでもうおしまい!と決めるのは自分ではない。生きていても意味が無ければ、そう神は判断されるだろう。ということは、生きている間は求め続けて生きるということではないだろうか。

 人は誰もが、自分を受け入れてくれる人を求めている。だから恋もするし、家庭もつくる。家庭が恋の場ではなくなると、さらに他に求めようとする。人は一生かけて、求愛と償いの連鎖の中にいるのかもしれない。12年間も友だち以上恋人未満の関係を維持してきた友だちがブログにこんなことを書いていた。

 “〈ある女性が友だちに向かって〉「自分の都合のいい日に、自分の行きたいところへ付き合ってくれる男の人がいて、12年経っても恋愛関係に発展しないなんて、結局は利用さていたと思う方が自然でしょ?土曜日か日曜日、あなたが女の人とデートしたい気になったら、いつでも電話頂戴。友だち以上恋人未満の関係で、喜んで付き合ってあげるから」。 女性が放った渾身のブラックユーモア、ずしんと私の胸に響いてきた。”

 女性の言葉をブラックユーモアと受け止めるべきではないと、私は思った。おそらく2度ばかり、友だちが連れて行ってくれた店の女性であろうが、私は、これは女性の本心だと思う。友だちが付き合っていた彼女も、女性が言うように利用していただけとは思わない。彼女は彼女なりに友だちのことを愛していたけれど、決して踏み込んでこない友だちのことを思い悩み、苦しんでいたのだと私は思っている。

 老いてからの恋は悲しいものなのだ。
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日銀総裁人事

2008年03月13日 22時08分37秒 | Weblog
 参議院で、日銀総裁に武藤氏を昇格させる政府案を不同意とされた後、記者団の質問に福田総理は「どうして賛成しないのですかね。よくわかりませんね」と答えていた。「えっ!?それって、KYじゃーないの?」と思った。日銀総裁の人事については、かなり以前から話題になっていた。民主党の一部には武藤さんでいいという動きもあったかもしれないが、野党は財政政策と金融政策は分離すべきだと一本化していたから、参議院での不同意は確定的だったはずだ。

 それに、野党は財政次官経験者の武藤氏では政府よりの金融政策になりかねないという理由で反対しているのに、「どうしてですかね。よくわかりませんね」と繰り返すやり方は、まるで野党側がダダをこねている印象を与えている。福田総理としてはそうした狙いがあるかもしれないが、「政争の具にしてはならない」と言われるなら、野党も同意できる人事案で行くべきだろう。それで、政府自民党が窮地に陥るということはまずあるまい。ただただ面子にこだわるのは大人気ない。

 米大統領候補者選びで、だんだん見通しが立たなくなってきてしまったヒラリー・クリントンさんが「オバマ氏が米軍の最高司令官のテストに合格したとは思わない」と演説すると共に、「私に投票すればオバマ氏も(副大統領として)ついてきます」と、クリントン大統領―オバマ副大統領コンビが最適だというような発言をしている。民主党の予備選挙で、今のところ獲得した代議員数でオバマ氏に負けているヒラリーさんが言うのもおかしな話だと思う。オバマ氏は「どうして2位の人が1位の人に、副大統領のイスを提示するのか」と拒絶する考えを明らかにしたが、当然なことだと思う。

 さらに、ヒラリー・クリントンさんを支援する元下院議員のフェラーロさんが、「オバマ氏が白人男性や女性だったら、今の地位にはいないだろう。彼は黒人でラッキーだ」と発言し、オバマ陣営から「黒人差別を含んだ攻撃的な発言」と猛反発を受けている。フェラーロさんの言いたいことは的を射ているが、だからといって公の席で発言していいことではない。ヒラリーさんが「同意できない」と言うのは当たり前の話だ。

 福田さんのように、薄らトボケた発言をして相手を引き落とす人もいるけれど、本当に空気が読めない人はいるようだ。上に立つ政治家にそんな人がいることが気になる。
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宴会の席で一番いやなこと

2008年03月12日 23時20分36秒 | Weblog
 宴会の席で一番イヤなのは、男のえげつなさをむき出しにして平気でいる奴がいることだ。私が教員になりたての時の宴会もうんざりした。上の人が嫌味の一つ二つ言いながら「俺の酒を飲め」と杯を差し出すことはよくあった。もちろん、「ありがとうございます」などと言って無理やり飲んだけれど、自分からお酒を注いで回ることはしなかった。酒は楽しく飲みたい。酒の席をいいことにして、無礼講だなどと言う人がどうもなじめない。

 もちろん、お酒を飲むのだから、ワーワーと騒ぐことを馬鹿げているなどと思ったことはない。飲んで騒いで歌でも歌い、踊りでも踊れるものなら踊って騒ぎたい。ところが騒ぐことを間違える人がいる。無礼講だから何をしてもかまわないと勘違いしている人がいる。教員の時の宴会では、若い養護教諭を別室に連れ込んだ部長先生がいた。私たち若手は頭に来て、帰りのバスで、その部長先生と大喧嘩になってしまった。全く恥を知らないというか、今なら完全にクビだろう。

 議員になった時も、コンパニオンに対してお乳やお尻など、滅茶苦茶にさわる人がいた。自分たちが住民の皆さんから選挙で議員にさせてもらっていることを完全に忘れている。コンパニオンだって、お金をもらっているとはいえ、身体を売っているわけではないのだから、あまりにえげつないことをされては頭に来ることだってある。「おさわり」させる飲食店はそれなりの値段をお客から取るだろう。それにしても、金を払えば何をしてもいいという「えげつなさ」が私はイヤだ。

 たとえ一時の宴会の席であっても、お酒の相手をしてくれる女性と「恋」に落ちるくらいに真剣に、付き合って飲みたい。そんなことは叶わぬ願望だと言う。だいたい、宴席でそんなものを求めるべきではない。適当に「おさわり」し、騒いで、そこそこにやれと言う。言われるとおりだと思う。だから、宴会は、早く終わってくれることが一番うれしい。コンパニオンやお酒の相手の女性に、一度も女性に触れたことがないのかと思うほど、えげつない接し方をする人が私は嫌いだ。

 こういう人は相手を思いやる気持ちがないのだから、恋愛はしたことがないに違いない。女をもののようにしか見ていない馬鹿な男だ。愛し愛されることの喜びも充実も知らず、ただひたすら「えげつなさ」に喜々としている情けない男だ。お酒は楽しい仲間と馬鹿馬鹿しいくらいに楽しい話を結構真剣にやりながら飲むのがいい。今の私はそういう友に恵まれて、実に楽しく酒が飲める。
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情けないこと

2008年03月11日 23時00分00秒 | Weblog
 南氷洋で日本の調査捕鯨船に、アメリカの環境保護団体「シー・シェパード」の抗議船が、薬の入ったビンを投げつける光景をテレビで見た。保護団体の人たちが日本の船に乗り込んで抗議する場面も以前あったけれど、今回の映像はビンを投げつける装置までも備えているから、さながら海戦のようだった。こんな場面を見たら日本人なら当然「絶対に許さん!」という気持ちになるだろう。

 テレビ討論で、自民党の中川前農水相は「撃沈させてもいい」と言うし、民主党の前原前党首も「いい気にさせてはいけない」と発言していた。「舐められてたまるか!」という気持ちは、こうしたテレビを見ていた日本人の心情だろう。私はヘソ曲がりなのか、こんなに抗議を受けながらどうして日本は捕鯨をするのだろうと思った。日本が捕鯨をする理由が私にはわからない。捕鯨をしないと南氷洋の生態系が変わってしまうとも思えない。

 抗議する方もけが人や死者を出すようなら、何のための抗議なのかわからなくなる。日本の関係者は話し合いはできないというけれど、調査捕鯨をやめてしまえば、話し合うこともなく解決する。捕鯨をしないと日本は食べるものがない、働く人が生きていけない、そういうことなら仕方ないと思うけれど、別に世界を敵に廻してまで捕鯨をする必要が全くわからない。圧力に屈しては国家の力のなさを示すことになるなどと、また西部教授は言うかもしれないが、戦争や紛争になるよりその方がよいと私は思う。

 他国にものが言えないのは、日本の国力が弱いからだと西部教授は指摘する。ここでいう国力は「軍事力であり、軍事戦略」以外の何ものでもない。軍備を強化して、それでどうなるというのだろう。やらなくてはいけないことは、軍備をなくしていくためにどうするかである。大学教授であってもそういうふうには頭が回らないのかなと思ってしまう。

 情けないといえば、埼玉県川口市立高校の校長も情けないな。彼はメールを送りつけていた女性をとても愛していたのだろう。愛していたからこそ、脅迫まがいのことまで行ってしまったのだろう。そんなにまで愛しているなら、まず離婚をして結婚を申し込むべきだった。そうすれば、彼女もまた校長が本気で自分を愛してくれていると知るであろう。校長と付き合う気はないと判った時点で、校長は切なく愚かな「恋」に終止符を打たなくてはならなかった。

 それができないのであれば、一切を捨て、彼女に向かわなくてはならないだろう。それをせずに、「裸の写真を送る」とか「殺す」とか、全く程度が低くすぎる。世の中には、校長と同じように、年下の女性に恋をしてしまい、しかも自分は彼女を幸せにはできないと知って、自ら彼女の元を去っていく、悲しい恋の結末を引き受けている男もいる。本当に相手の女性を愛しているなら、彼女が幸せになれるように考えるのが男というものだろう。

 「気に入らないから、ぶっ飛ばしてやる!」。そうではなく、みんなが幸せに暮らせるためにはどうするか、それを考えることではないのだろうか。
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