奇しくも 昨日考えていたことは一年前の今日(4月26日)考えていたことと同じ
内容だった。
いつも 深層意識で探っていることは最大関心事であり 同じような波形が生じて
しまうのかもしれない。
それにしても一年を経ての同じ日とは自然の采配は粋である。
奇しくも 昨日考えていたことは一年前の今日(4月26日)考えていたことと同じ
内容だった。
いつも 深層意識で探っていることは最大関心事であり 同じような波形が生じて
しまうのかもしれない。
それにしても一年を経ての同じ日とは自然の采配は粋である。
昨日は柄にもなく 創造の神に祝福されたいなどと書いてしまったが それは柄に
もないどころか自分の深層からの言葉ではないなと反省した次第。
では誰の言葉なのかという話はややこしくなるからスルーするとして やはり言葉
は油断すると魔物と化するものだから 細心の推敲が欠かせないものである。
おそらく 創造の神は自然そのものであるから 私個人にだけ祝福を贈られること
はない。自然下で創造されたすべての存在に対し祝福されている筈である。
そこを 私は誘導され言葉の選択を間違った。繰り返して言おう。創造の神はすべ
ての創られた生命存在を創造原初において祝福し給うたのである。
更に言えば 神に反する存在に対してさえ その祝福を解かれることはない。なぜ
なら 神に反するものなど もともと創造界には存在しないからである。
究極において すべては創造の光。そこにもともと闇はない。光と闇の闘いなどと
実(まこと)しやかに語り継がれるがそうではない。闇は表層意識の錯覚である。
すべての生命は光として生まれており 光の派生以外のなにものでもないのであ
る。原初光を奉ずる魂たちの どこに闇が蔓延る余地があろうか。