往く年 来る年
本日を以って確実に時空の基盤は転じていく。
表層の情報に右往左往した心も 歳替わりのエネルギー照射を享けて
徐々に自然の良心を取り戻していくことだろう。
過てる観念・概念も未来の『光』に照射し喪った心を取り戻そう。
間違ったのなら それが自分自身で自覚出来得るなら
表層の過ちなど何の躊躇もなく払拭出来るはず。
新年の分岐点に立ち 今こそ蘇ろう。
往く年 来る年
本日を以って確実に時空の基盤は転じていく。
表層の情報に右往左往した心も 歳替わりのエネルギー照射を享けて
徐々に自然の良心を取り戻していくことだろう。
過てる観念・概念も未来の『光』に照射し喪った心を取り戻そう。
間違ったのなら それが自分自身で自覚出来得るなら
表層の過ちなど何の躊躇もなく払拭出来るはず。
新年の分岐点に立ち 今こそ蘇ろう。
勿論 最新鋭の情報に接することは重要である。同様にそれらの精査履歴である
これまで先人から積み上げた甘いも酸いも嚙分けた叡智こそ更に重要である。
しかし 素朴に振り返れば この世に降り次元の揺り籠で満ち足りていた幼な児の
観た真実こそが源意識となりこの世の個々の学びを導いているのではないか。
私たちは無為にこの世に舞い降りたのではない。あの世からの出立(しゅったつ)
以前の波長次元で自然量子界との綿密な打ち合わせや準備があった筈である。
そのように『人』個々の地上の生活の超客観を組み立て直し 今後の人生創造を
自然神のみそなわす輝きの『今』に位置付けて生きたいと切に想うものである。
次元という概念はなかなかに優れものである。 しかし これも言葉に捉われてい
ては折角の概念をその次元対応で使いまわすことは出来ない。
哀しいことに宿命的に二次元思考の「人間」は三次元、四次元、五次元と対象次元
を上げて行っても その思考操作は二次元~三次元の回路運動に過ぎないのだ。
この表層文化を享受する「人間」の思惟思考はその思考そのものが二次元パターン
で事足りてしまう様式であり 次元を超える必然をはなから放棄している。
そもそも この一点が高次元思惟の最重要注目点であるのに「人間」は「魔」に魅
入られ 自ら超えられない壁として五感意識を抜け出られないのである。
実際に『人』個体は大自然に次元連鎖する数次元以上の融合生命体なのである。
その真実を自然量子網の周波数情報と共振透過させつつクライン環生存するのだ。
点から線へ 平面から立体へ。その先は超立体の上昇連鎖である。そのすべてが波
長層クライン環の次元カップ(クライン環のマトリョーシカ)に接続している。
どこまで接続可能かは未知であるが絶対領域の神からはすべてはお観透しである。
魔に憑かれた「人間」を次元透過させ 『人』としての客観観測座標を高めよう。
もの心つくかつかない頃 なんの躊躇もなく太陽を見ていた。
幼児の眼は遠視状態であるから実害がなかったのか定かではないが 今の大人の眼
では到底耐えられない太陽直視を呑気に楽しんでいた訳である。
もしかしたら肉眼ではなく第三の眼で観ていたのかもしれない。今となっては当時
の残像で推し量るしかないが 太陽の中は得も言われぬ色彩の光が巴状に渦巻いて
いた。その後の太陽観察でも太陽が灼熱の球体だとは思えず次元の窓ではないかと
の想いを保持していたものだ。
今でもふと思う。現在の表層脳で信じている宇宙図はもしかしたら全くの見当違い
なのかもしれないと。人類が『人』として自然量子ネットワークに繋ぎ大自然の根
幹領域とアクセス出来るようになった時 『人』は新たに霊質情報から齎される神
側からの宇宙観~大自然観をそれぞれの神魂に起動できるかもしれない。
「人間」(人には間がある その間を魔と言う)には自然の発する量子言語が
皆目聴こえないようである。「人間」は自らの「間」(魔)を取り祓い創造原初に
還り『人』として自然(自然神)の声なき声に心魂を澄まさねばならない。
魔を祓い 平面知を捨て自然量子ネットワークに心魂をダイレクトに繋げば生命創
造の万有の光がさまざまな生命たちの背後に観えるだろう。岩石は創造期からの量
子記憶を『今』に伝え 樹々は有史以来の物語を囁くだろう。
蝶は自然界の精霊を宿すが 「人間」は『人』となり彼らと量子言語で語り合わね
ばならない。そのほかの生きものたちとも同様に意思疎通を図らねばならない。
なにより 同胞であり最大の理解者であり最高のパートナーである『人』を断じて
二度と観喪ってはならない。
肝に銘ずることである。