今日は、横田めぐみさんの50歳の誕生日だそうです。
13歳で北朝鮮に拉致されて、37年の月日が経ってしまいました。
当ブログに、いつも横田めぐみさんの当時の可愛い姿をバナーで貼ってきましたが、それは、私のお師匠様のブログの記事 「偽善と欺瞞」にはじまり、 「私たちにできること」という記事に共感したからでした。
以下、少し長くなりますが、書きとどめておこうと思います。
当時、師のブログの記事を受けて、私は次のようなコメントをいたしました。
とてもとても、考えました。 (たま) 2010-11-16 17:58:03
和子先生の一連の記事を読ませていただいて、本当にたくさんのことを思いました。
私が戦争を嫌いと思うのは、恐いということと同義語かもしれません。
我が国には、軍隊もなく、国防するための手段は自衛隊という徴兵制度のない職業です。
経済が冷え込むと、自衛隊の入隊者が増えるというサラリーマン的な向きもあります。
私達世代は、浅間山荘事件を小学校の教室でTVで朝から晩まで見せられて学生運動は悪いことと教えられそう信じてきて、二十歳の頃、フォークソングの意味や、改めて樺美知子さんなどの存在や学生達の思いを知り、学校で学んできたことに疑いを持ちました。
ですから、道徳の授業も個人の自由を押し殺すものではないかと思った時期もあります。
小学校の頃、親に反抗すると「アカみたいなことを言ってはいけない」と言われました。
アカの意味もわからず、ただ辛かった記憶があります。
二十歳を過ぎた頃、京都に住んでいて、6歳年上の友人は高校生で学生運動を経験し、そのお兄さんは共産党員でした。マルクスレーニンの全集もお持ちで、ページをめくったりもいたしました。
本当に共産主義になれば幸せになるのか?と考えました。平等ってなんだろう?みんな同じっていやだなぁなど、拙い頭でいろいろ思ったものです。
そして、社会に出ていやいやながら組織に入ると、上司は60年安保、70年安保の当時に大学生だった人たちで、ナショナリズムに異議を唱えてきたのにもかかわらず日和見となり、資本主義の組織を構成する立場にいるという複雑な生い立ちの上司に育てられながら大人になってきたように思います。
私達50代の世代は、学校給食で食文化を犯された上に、こんな風にアイディンティティを右往左往させながら、ちっとも世の中の真実に出会わないトラウマを繰り返し、何が正しくて何が間違っているのかが見えなくなってしまいました。
それゆえに、どんどん、個人主義になって隣人を愛することもできない人間になっているのかと思います。
マクロビオティックにであったからなのかどうかはわかりませんが、そんな右往左往に振り回されることが無くなってきました。
自分自身がまずはワクワク(ヒレをふって)して、一生懸命今を生きることをしていきたいと思います。
そして、未来を創る子どもたちには、生きるワクワクを残してあげたいと思います。
私は、毎日そのことを唱えていこうと思いました。
和子先生、いつもたくさんのモヤモヤありがとうございます。
平和は戦争があるからこそ存在するものです。背中合わせにある相対するものが実は同じ
ものであることの認識をしっかり持ちたいです。子どものころから持ってきた右往左往の答えがここにあるように思います。
あれから、4年ほど経ちましたが、今も尚、国防と言うもに対するスタンスがはっきり決まらぬまま、至っております。
今日、新たに師が書かれたブログの記事を読ませていただき、
『国民の安全(国の主権)が侵されたとき、最終的には武力を持ってでも回復するか』という問題は、『侵略して領土を拡張するか』という問題とは違います。
と、いうこの言葉によって、現実というものをもっと見なくてはいけないと改めて思いました。
今日の師のブログの全文をここに転載させていただきますので、お読みくださいませ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!
現政権の最重要事項の一つに拉致問題があることは、国民の一人として安堵感を感じています。それは、国民の安全保障という問題に対する政府の姿勢に対してです。
政府のあり方というものは、国民の態度によると思います。これまでの『早く解決しなければ・・・・・』という祈るような、ある意味安易(?)な取り組みは、私たち国民全体の姿勢でもあっただろうと思います。拉致が行われて現在に至るまで、私たちは拉致された方々の時間というものを切実に考え表明したことがあったでしょうか?思いの端に浮き上がることはあっても、それをどうしたでしょうか?他人事だったのです。自分のことではなかったのです。
彼の人達は拉致された場所で三十数余年の人生をおくらされてしまいました。そしてそこに様々な関わり合いを生み出す以外にありませんでした。これをいったい私たちはどうしたらいいのでしょうか?????私たちはこうした一人一人の安全保障に対して、政府にどうしてほしいと思っているのでしょうか。この三十数余年の歳月の問題は、話し合い(?)に長い長い時間をかけたことの結果起こりました。
安全保障の問題が『戦争をするか否か』ということのように反論されていますが、そうではなくて、少なくとも理想ではなく、現実の世界の中で『自分が拉致されたとき、政府は何をするか』という問題と根源的に同じであることを、もっと深く感じなければならないと思います。『国民の安全(国の主権)が侵されたとき、最終的には武力を持ってでも回復するか』という問題は、『侵略して領土を拡張するか』という問題とは違います。それは自分たちの安全に対する国民の決意の問題です。そして現代は幸いにして、領土を拡張しなければ国家を維持できない好戦的な時代ではないと思います。(どうも中国は別の時代感覚らしい・・・・・ですが。)
拉致に関する北朝鮮との折衝に、北朝鮮という国の不誠実さが再び見せられて嫌気を感じさせられています。日本人は、どうも自分と同じものを他国にも期待してしまう・・・・・だけど、敢えて言うのですが、実際のところ北朝鮮はどうにもならないのでは・・・・・・とも思います。私達も生身の同胞を身の危険をおかしても取り返しにいかなかったのですから。だからあれほど多くの人々を連れ去られてしまった・・・・・そしてその肚が据わらない限り、私たちは武力なんて使えないのかもしれません。だけど、もし自分の身に起こったら、結果的に言えば、放置されるということなんです。
この記事で、『私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!』というフレーズをお終いにすることにしました。なぜかといえば、私達が横田めぐみさんたちの身の上に起こった事実をしり、そして三十数余年どのように生きてきたかを検証すること以外に残されていないように思うからです。帰ることが出来る人も出来ない人もいるはずです。様々な人生模様をそこで紡ぐ以外になかったのですから。どんなにつらくても受け入れる以外になかったのですから。取り返すのは、横田めぐみさんたちをどれくらい自分として感じることが出来るか、という同胞を思う心だと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日TVの映画で「アバター」を観ました。
まさに、国を、民族をどう守るのか=どう戦うのかということがストーリーでした。
キャッチコピーを覚えていらっしゃいますか?
「観るのではない。そこにいるのだ。」
もちろんこれは、3D映画の迫力を語ったものではありますが、
「私たちは、日本を、アメリカを、世界を観るだけで、その実体として自分自身をそこに存在させているのだろうか?」
このキャッチコピーに、そんなことを思いながら、スカイピープル(地球人)とナヴィの在り方、戦い方を観ました。
「戦争反対!憲法9条をまもれ」と申してまいりましたが、その根底の思いはなんだったのだろうか?
言い方は悪いですが、面倒なことはしたくない。今の幸せを壊したくない。という事だったのではないかと省みるのです。
ナヴィたちは、戦うべきではなかったのか?
ここに大きな問題としてはばかるのが、国という国民の所属する器と、国民を牽引する長のありかたなのかもしれません。安倍さんの指揮により戦争に向かうことについては、断固、拒否をしたい、ジェイクのような長(おさ)であれば、戦いも辞さない。
これは、現実とバーチャルのはざまの投影であり、ジェイクなど存在しないという現実からの逃避でもあります。結局、覚悟などできないのが、現代人のほとんどであり、そして、依存するか、何も考えないか、むなしく戦争反対を唱えているかとうのが現状なのかもしれません。
『国民の安全(国の主権)が侵されたとき、最終的には武力を持ってでも回復するか』という私たち日本人に突きつけられた課題について、皆さんはどうお考えになるでしょうか?
平和と戦争、相対関係にあるこの言葉は、実はどちらかが無くなれば成り立たない相補の関係でもあるわけです。平和という概念は、平和でない状況があるから成り立つのです。
世界平和が大きな目的であるマクロビオティックの陰陽の考えから行くと、完全なる中庸はないわけで、すこしだけどちらかの力が大きくなるのが自然の法則であり、コロコロと日常は変化しながら移り変わっていくことを知るとき、いわゆる平等な平和など存在しないことを思い知らされます。
均衡を保つためにはその都度何かしら波風が立つのだと思います。
戦わずして平和を、という日本人の根底には資本主義社会の存続が当たり前であって、スカイツリーもリニアモーターカーも、電気自動車も、無人運転も全てがあって当たり前が上での平和を求めているのであって、他者の平和、幸せを望んでいるものではない気がします。
これでは同じ土俵の上でのお話しは成立しないわけです。
それだけに難しい、国防のお話し。
秋の夜長、意見はそれぞれでいいと思いますが、日本国民でいる以上は、しっかり考え、それぞれの表明が必要なのではないかなと思いました。
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13歳で北朝鮮に拉致されて、37年の月日が経ってしまいました。
当ブログに、いつも横田めぐみさんの当時の可愛い姿をバナーで貼ってきましたが、それは、私のお師匠様のブログの記事 「偽善と欺瞞」にはじまり、 「私たちにできること」という記事に共感したからでした。
以下、少し長くなりますが、書きとどめておこうと思います。
当時、師のブログの記事を受けて、私は次のようなコメントをいたしました。
とてもとても、考えました。 (たま) 2010-11-16 17:58:03
和子先生の一連の記事を読ませていただいて、本当にたくさんのことを思いました。
私が戦争を嫌いと思うのは、恐いということと同義語かもしれません。
我が国には、軍隊もなく、国防するための手段は自衛隊という徴兵制度のない職業です。
経済が冷え込むと、自衛隊の入隊者が増えるというサラリーマン的な向きもあります。
私達世代は、浅間山荘事件を小学校の教室でTVで朝から晩まで見せられて学生運動は悪いことと教えられそう信じてきて、二十歳の頃、フォークソングの意味や、改めて樺美知子さんなどの存在や学生達の思いを知り、学校で学んできたことに疑いを持ちました。
ですから、道徳の授業も個人の自由を押し殺すものではないかと思った時期もあります。
小学校の頃、親に反抗すると「アカみたいなことを言ってはいけない」と言われました。
アカの意味もわからず、ただ辛かった記憶があります。
二十歳を過ぎた頃、京都に住んでいて、6歳年上の友人は高校生で学生運動を経験し、そのお兄さんは共産党員でした。マルクスレーニンの全集もお持ちで、ページをめくったりもいたしました。
本当に共産主義になれば幸せになるのか?と考えました。平等ってなんだろう?みんな同じっていやだなぁなど、拙い頭でいろいろ思ったものです。
そして、社会に出ていやいやながら組織に入ると、上司は60年安保、70年安保の当時に大学生だった人たちで、ナショナリズムに異議を唱えてきたのにもかかわらず日和見となり、資本主義の組織を構成する立場にいるという複雑な生い立ちの上司に育てられながら大人になってきたように思います。
私達50代の世代は、学校給食で食文化を犯された上に、こんな風にアイディンティティを右往左往させながら、ちっとも世の中の真実に出会わないトラウマを繰り返し、何が正しくて何が間違っているのかが見えなくなってしまいました。
それゆえに、どんどん、個人主義になって隣人を愛することもできない人間になっているのかと思います。
マクロビオティックにであったからなのかどうかはわかりませんが、そんな右往左往に振り回されることが無くなってきました。
自分自身がまずはワクワク(ヒレをふって)して、一生懸命今を生きることをしていきたいと思います。
そして、未来を創る子どもたちには、生きるワクワクを残してあげたいと思います。
私は、毎日そのことを唱えていこうと思いました。
和子先生、いつもたくさんのモヤモヤありがとうございます。
平和は戦争があるからこそ存在するものです。背中合わせにある相対するものが実は同じ
ものであることの認識をしっかり持ちたいです。子どものころから持ってきた右往左往の答えがここにあるように思います。
あれから、4年ほど経ちましたが、今も尚、国防と言うもに対するスタンスがはっきり決まらぬまま、至っております。
今日、新たに師が書かれたブログの記事を読ませていただき、
『国民の安全(国の主権)が侵されたとき、最終的には武力を持ってでも回復するか』という問題は、『侵略して領土を拡張するか』という問題とは違います。
と、いうこの言葉によって、現実というものをもっと見なくてはいけないと改めて思いました。
今日の師のブログの全文をここに転載させていただきますので、お読みくださいませ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!
現政権の最重要事項の一つに拉致問題があることは、国民の一人として安堵感を感じています。それは、国民の安全保障という問題に対する政府の姿勢に対してです。
政府のあり方というものは、国民の態度によると思います。これまでの『早く解決しなければ・・・・・』という祈るような、ある意味安易(?)な取り組みは、私たち国民全体の姿勢でもあっただろうと思います。拉致が行われて現在に至るまで、私たちは拉致された方々の時間というものを切実に考え表明したことがあったでしょうか?思いの端に浮き上がることはあっても、それをどうしたでしょうか?他人事だったのです。自分のことではなかったのです。
彼の人達は拉致された場所で三十数余年の人生をおくらされてしまいました。そしてそこに様々な関わり合いを生み出す以外にありませんでした。これをいったい私たちはどうしたらいいのでしょうか?????私たちはこうした一人一人の安全保障に対して、政府にどうしてほしいと思っているのでしょうか。この三十数余年の歳月の問題は、話し合い(?)に長い長い時間をかけたことの結果起こりました。
安全保障の問題が『戦争をするか否か』ということのように反論されていますが、そうではなくて、少なくとも理想ではなく、現実の世界の中で『自分が拉致されたとき、政府は何をするか』という問題と根源的に同じであることを、もっと深く感じなければならないと思います。『国民の安全(国の主権)が侵されたとき、最終的には武力を持ってでも回復するか』という問題は、『侵略して領土を拡張するか』という問題とは違います。それは自分たちの安全に対する国民の決意の問題です。そして現代は幸いにして、領土を拡張しなければ国家を維持できない好戦的な時代ではないと思います。(どうも中国は別の時代感覚らしい・・・・・ですが。)
拉致に関する北朝鮮との折衝に、北朝鮮という国の不誠実さが再び見せられて嫌気を感じさせられています。日本人は、どうも自分と同じものを他国にも期待してしまう・・・・・だけど、敢えて言うのですが、実際のところ北朝鮮はどうにもならないのでは・・・・・・とも思います。私達も生身の同胞を身の危険をおかしても取り返しにいかなかったのですから。だからあれほど多くの人々を連れ去られてしまった・・・・・そしてその肚が据わらない限り、私たちは武力なんて使えないのかもしれません。だけど、もし自分の身に起こったら、結果的に言えば、放置されるということなんです。
この記事で、『私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!』というフレーズをお終いにすることにしました。なぜかといえば、私達が横田めぐみさんたちの身の上に起こった事実をしり、そして三十数余年どのように生きてきたかを検証すること以外に残されていないように思うからです。帰ることが出来る人も出来ない人もいるはずです。様々な人生模様をそこで紡ぐ以外になかったのですから。どんなにつらくても受け入れる以外になかったのですから。取り返すのは、横田めぐみさんたちをどれくらい自分として感じることが出来るか、という同胞を思う心だと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日TVの映画で「アバター」を観ました。
まさに、国を、民族をどう守るのか=どう戦うのかということがストーリーでした。
キャッチコピーを覚えていらっしゃいますか?
「観るのではない。そこにいるのだ。」
もちろんこれは、3D映画の迫力を語ったものではありますが、
「私たちは、日本を、アメリカを、世界を観るだけで、その実体として自分自身をそこに存在させているのだろうか?」
このキャッチコピーに、そんなことを思いながら、スカイピープル(地球人)とナヴィの在り方、戦い方を観ました。
「戦争反対!憲法9条をまもれ」と申してまいりましたが、その根底の思いはなんだったのだろうか?
言い方は悪いですが、面倒なことはしたくない。今の幸せを壊したくない。という事だったのではないかと省みるのです。
ナヴィたちは、戦うべきではなかったのか?
ここに大きな問題としてはばかるのが、国という国民の所属する器と、国民を牽引する長のありかたなのかもしれません。安倍さんの指揮により戦争に向かうことについては、断固、拒否をしたい、ジェイクのような長(おさ)であれば、戦いも辞さない。
これは、現実とバーチャルのはざまの投影であり、ジェイクなど存在しないという現実からの逃避でもあります。結局、覚悟などできないのが、現代人のほとんどであり、そして、依存するか、何も考えないか、むなしく戦争反対を唱えているかとうのが現状なのかもしれません。
『国民の安全(国の主権)が侵されたとき、最終的には武力を持ってでも回復するか』という私たち日本人に突きつけられた課題について、皆さんはどうお考えになるでしょうか?
平和と戦争、相対関係にあるこの言葉は、実はどちらかが無くなれば成り立たない相補の関係でもあるわけです。平和という概念は、平和でない状況があるから成り立つのです。
世界平和が大きな目的であるマクロビオティックの陰陽の考えから行くと、完全なる中庸はないわけで、すこしだけどちらかの力が大きくなるのが自然の法則であり、コロコロと日常は変化しながら移り変わっていくことを知るとき、いわゆる平等な平和など存在しないことを思い知らされます。
均衡を保つためにはその都度何かしら波風が立つのだと思います。
戦わずして平和を、という日本人の根底には資本主義社会の存続が当たり前であって、スカイツリーもリニアモーターカーも、電気自動車も、無人運転も全てがあって当たり前が上での平和を求めているのであって、他者の平和、幸せを望んでいるものではない気がします。
これでは同じ土俵の上でのお話しは成立しないわけです。
それだけに難しい、国防のお話し。
秋の夜長、意見はそれぞれでいいと思いますが、日本国民でいる以上は、しっかり考え、それぞれの表明が必要なのではないかなと思いました。
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