「セム族の宗教」その3おわり

2013-05-18 19:34:36 | 

 ロバートソン・スミスは、さまざまな供犠の原型として、古代アラビアのラクダの供犠を挙げている。生きたラクダを石の壇の上に縛りつけて、剣で細切れにしていく。そして、氏族全員で肉、内臓、骨を生のままひとつ残らず食い尽くす。血は壇の上に流して、神に捧げる。

 「ヘイムスクリングラ」に出てくる北欧の供犠を思い出す。キリスト教に改宗する前のゲルマン人も、ウプサラの神殿の壁や床に、殺した犠牲の血を塗りたくっていた。

 古代人が血を捧げた神とは、何だったのか。スミスは、アラビアの伝説に出てくる「ジン(鬼神)」に注目する。それは獣の姿をしていて、無力な人間を取り巻く自然の猛威の象徴だった。やがて人間たちは、彼らの中から自分たちの味方になってくれるものを選び出し、自分たちとの間に「血縁関係」を設定し、「神」と呼ぶようになる。さらに時が経つにつれて、「神」は人間の姿に変化する。これと同時に、「神聖なもの」と「穢れたもの」の分化も生じた、という。それらはもともとは「非日常的な恐るべきもの」だったが、「神」になりそこねた「獣」は、「穢れたもの」とされるようになってしまったのだ。

 「古代人は人間と獣を一体のものと見ていた」とする主張は、レヴィ・ブリュルの「融即の法則」を連想させる。また、「神聖なものと穢れたものは、もともとはひとつのものだった」という主張は、エミール・デュルケムが「宗教生活の原初形態」の中で引用している。まさに、名著だ。だが・・・・・・。

 納得できない部分もある。スミスは、「古代人が崇拝した『聖なる石』は、性器を意味していない。丸い石が男神を表していたり、長い石が女神を表していたりする例もある。石は人々が集合する目印だった」、というが、本当にそうか? 部族によって、性器の大きさ、カタチは違うだろうし、男性器は大きさがその時によって変化するものだ。丸い石が男性器を意味していても、別におかしくはないにゃ。
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