箴言を読む。一応、ソロモン王が書いたことになっている。
ヴェーバーによると、箴言は、現代の資本主義に多大な影響を与えたという。16世紀の人々は、死後に 「 永遠のいのち 」 を得られるかどうかで大いに悩んだ。それに対してプロテスタントのカルヴァン派は、こう答えた。旧約聖書、特に箴言に倣って生活を労働中心に組み立てることによって、「 自分は神に選ばれている 」 という確信に至ることができる。それが、「 永遠のいのち 」 を得るということでもあるのだ、と (「 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 」)。このような信仰と生活が、現代に至るまで続いているのだという。
読んでみると、なるほど、それらしい記述がある。
勤勉な手は支配し、怠惰な手は奴隷となる ( 12、24 )。
命は慈善の道にある。この道を踏む人に死はない ( 12、28 )。
怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える ( 19、15 )。
勤勉な人はよく計画して利益を得、あわてて事を行う者は欠損をまねく ( 21、5 )。
怠け者は自分の欲望に殺される。彼の手が働くことを拒むからだ ( 21、25 )。
金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる ( 22、7 )。
2番目の教えは、アメリカの大金持ちが巨額の寄付を行うときの根拠になっているのだろう。だが、箴言にはこんなことも書いてある。
神に従う人の収入は生活を支えるため。神に逆らう者の稼ぎは罪のため ( 10、16 )。
人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない ( 10、22 )。
人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある ( 14、12 )。
欲望は人に恥をもたらす。貧しい人は欺く者より幸い ( 19、22 )。
富を得ようとして労するな。分別をもって、やめておくがよい ( 23、4 )。
利息、高利で財産を殖やす者は、集めても、弱者を憐れむ人に渡すことになろう ( 28、8 )。
このように箴言には、さまざまな矛盾する教えが含まれている。どちらか一方が正しいというわけではなく、その場その場で判断するしかないのだ。箴言が、ひたすら利益の拡大を目指すだけの現代の資本主義の基礎になった、というヴェーバーの説は不正確で、おそらく16世紀の人々は、自分たちのふだんの生活を正当化するのに都合がいい部分だけを、意図的に聖書からつまみ食いしたのだ。