リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

13800円

2021年01月13日 12時58分39秒 | 日々のこと
ジャパネットのTV宣伝番組を見ていましたら、MCの男性が「な、なんとイチマンサンゼンハッピャクエーン」と絶叫していました。

13800円といえば子供(幼児?)の頃、ラジオから「イチマンサンゼンハッピャクエーン」という歌が流れていたのを覚えています。まだテレビがウチになかった時代でした。ラジオは常時ついていて、流れていた流行歌のメロディは今でも覚えているのがあります。でもなぜか「イチマンサンゼンハッピャクエーン」はこの部分しか記憶にありません。

早速Wikiで調べてみますと1957年に発表された歌で、フランク永井が歌っていたそうです。

最初の歌詞が「もっこかつげや、つるっぱしふるえ、歌え陽気に炭坑節、黒いダイヤに惚れたのさ・・・」です。

なるほどこれは高度成長期を支えた炭鉱夫の歌なんですね。「イチマンサンゼンハッピャクエーン」前後の歌詞は難しすぎて幼児には理解できるはずがありません。

13800円の月給で多いとは言わないけど、これだけあればお嫁さんももらえるしなんとか楽しくやっていけるだろう、というような内容の歌詞で、希望に満ちていますねぇ。

Wikiによると歌の発表当時の大卒の初任給平均が13800円だったそうですが、当時の大卒というのは相当なエリートだったはずで、それと同じ額を貰っていた炭鉱夫は高給取りだったと言えます。(1957年の4年生大学進学率は9%です。【文部統計要覧】)

思い出すのは、中学校を卒業した年の3月の終わりころ、担任の先生に会いに学校に押し掛けたとき、どういう話の流れかは忘れましたが、先生の給料が1万円台だったことを知り驚いたことです。先生はしきりに安いと嘆いていました。その後学校の先生の給料は田名角栄が1974年に立案した教員人材確保法で一気に25%もあがりました。

実はその翌年に私は教員に採用されたのですが、手取りが低かったのにガッカリした覚えがあります。(何をぜいたくなと叱られそうですが)というのも学生時代の後半はキター関係の仕事でそこそこ稼いでいましたので、一日の大半を働きその結果が半分くらいしかない手取りだということに愕然としたわけです。でもギター関係の仕事に戻らかったのはそもそもオイルショックでそういうおいしい仕事がぱったりとなくなってしまったからでした。

炭鉱も現在は細々と続いている程度で最盛期に比べれば見る影もありません。20歳前半の若者が、ギターがちょっと弾けるだけで大卒より沢山稼げる仕事が名古屋市内にあったという時代もとっくになくなりました。学校も、校内暴力はなく保護者も協力的で部活の問題もない時代はとうの昔に過ぎ去りました。今も探せばきっといいところは一杯あると思いますが、年のせいか昔はよかったとつい言ってしまいます。