少し暗いお話になりますので、嫌な方はスルーしてください。
9月3日の信濃毎日新聞の俳壇に載っていた小諸市の篠原昭枝さんの歌
「己が身と代れるならばと思いつつ亡き娘看取りし日々忘れられず」
に思わず泣きました。
今日は娘の7回忌です。
余命10日と言われて、病棟のラウンジで夜中神仏に祈りました。
私の命と代えてと。
初めて心から祈りました。
闘病の日々。
助からないかもが、もうダメと順に日をおいて告げられて。
娘に本当のことを告げられないままに、治るからと嘘をついて。
不安を感じていただろうに、治りたい一心で私の言葉を信じようとしていた娘。
死んでしまうことは仕方がないにしても、死ぬならば娘なりに残したい言葉があっただろうに。
小3の娘に言い残したいこともあっただろうに。
それをさせえなかった私自身をどれほどに後悔したのか。
死の2週間ばかり前でしょうか、ノートが欲しいといいます。
そのノートに「ちーちゃんとママの楽しいこと」と表紙に書き、罫線だけのノートに1週間ごとの日付を入り始めました。
お母さんを信用しないわけではないけれど、と少し頭が朦朧として来ていたのでしょうカレンダーが欲しいといいました。
そのノートの日付が10月、11月、12月と入れられていきました。
でも」書ける「楽しい事」が何一つなかったのでした。
夜付き添いをして、昼間仕事と家事をして、もう私自身が車の運転ができる状態ではありませんでした。
学校から帰ったちーちゃんと私を夫が病院に送り届け、翌朝私は新幹線で帰ってきました。
「今この子の母親だけでいさせて」と、娘の看病に専念できたのは1週間ばかりだったでしょうか。
もっとこの子の母親でいたかった、もっと早くにそうしたかった。
余命10日のはずが、週末にしか来れない娘の夫の都合をはかったように突然やってきました。
病室に入ったトタン異変に気が付きました。強い痛み止めが打たれていました。
「もうこのまま目を覚ますことはないわよ」と私。
取り付けられた機械から警告の音が絶えまず鳴ります。
ちーちゃんにママにお別れを言いなさいと。
ちーちゃんの「ママ死んじゃあ嫌だ―」の悲鳴のような声が病棟に響きました。
「よく頑張ったね、ちーちゃんは私たちが育てるからね」の私の言葉に、娘の目から涙がこぼれ落ちました。
強い鎮痛剤で話すことはできなかっただろうけれど、みんなの声は聞こえていたのでしょう。
まだ少し元気な時に「ちーちゃんをどんなふうに育てたいの?」とさりげなく聞きました。
「かわいい子に育てたい」と。そう人にかわいがらけるような子にね。
病室で小さい時からの楽しかったエピソードを語りあいました・・・・せめて、せめてと。
自分の人生が幸せだったと。
娘を亡くしてから、多くの方が「私も・・・」と若い身内を亡くされたことを話してくれました。
それまでにもそういう方も知っていました。慰めの言葉をおかけしたことも何人となくいました。
でも当事者になって、その皆さんにどこまで寄り添えたかと思うようになりました。
娘の死は辛いことです。でも私よりもっと悲しく辛いのはその夫とちーちゃんです。
小3だったちーちゃんが中3年になりました。
6年という歳月を感じます。
ズッと書けなかった事を少し書けました。
発病から亡くなるまでの70日間は、どうしても日々フラッシュバツクしてしまうのです。
だから命日を過ぎると、気分が少し前向きになれるのです。
明日からまた元気になります。
ここまでお読みいただいた皆様ご迷惑をおかけしました。
読んでいただいてありがとうございます。
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