宮脇 昭さんのお話を聞いたのは、ホームウェル八ヶ岳の株式会社キムラ工房の木村浩行社長からだった。ホームウェルのオーナー会の席で、ちよっと時間を、と言って、宮脇さんの「本物の木」を植える活動と彼自身が今それに共感して活動していると、熱っぽく語ったのだった。
あわせて、来春の植林は佐久でするんですよ、と私に念を押した。そして全員に「鎮守の森」という氏の本を贈呈してくれたのだった。
なかなか手にとる機会がないまま、机の片隅に押しやられていたのだった。
16日の信濃毎日新聞の教育欄の「あの一言」コーナーを読んだ時、すべてが繋がった。氏は今80歳、農家の出身で、皆が雑草取りで苦労するのを見て育ち、大学で雑草を研究し、ある時全国120ケ所を年4回ずつ回る調査を、恩師の教授の「君ならできる。ぜひやりたまえ」の言葉に力づけられ、研究を続け、その論文がドイツの研究所の教授の目にとまり、留学。
そのドイツの教授の「見えるものしか見ない若者と、見えないものを見ようとする若者がいる。君は後者だ。君ならできる」と。いったん帰国した後もドイツに21回通い、潜在自然植生を把握したのだった。
ここまでの話は以前に読んだのだろうか・・・・ラジオのこころの時間で聞いたのだろうか・・・・。
昨日片隅に置き去りにしていた「鎮守の森」を昼休みに読んだ。
心にずっしりときた。
折りしも、東北の地震の時でもある。「鎮守の森」は大震災も耐え抜いた森として神戸の大震災の話から始まっているのだ。
その地域、地域に適した木がある。それは昔からその地に生えていた木だ。それを植えることにより、森をつくる。
現実の山は植林したものだ、街路樹も公園も日本中同じパターンだ。
大きな工場に、緑地が義務づけられたが、そこには芝生が植えられ、ポッンポッンと木が植えられている。それを維持するのに、労力とお金がかかるのだ。
氏の推奨する森は3年以後、維持費がかからないという。大きな魅力ではないか。
氏の推奨する森が、新日鉄の各工場の周囲に実践されているとのことだ。それとイオングループのお店の周囲、佐久のジャスコでも駐車場の廻りにも私の好きな野山の木が植えられている。この本を読んでその意味が本当によくわかった。
これを植林する時は、一般市民を公募している。その意味は大きい。
この運動は日本にとどまらず、世界に飛んでいるのだ。あの中国の万里の長城の際にも植林しているのだ。かって中国だって鬱蒼とした森があったはずだ。長城をつくるレンガを焼くための燃料になってしまったのだろう。いったん風化してしまった土地を森に帰すことは困難だが、氏の研究による成果はすばらしい。
東南アジアの熱帯雨林再生プロジェクトも興味深かった。私が学生時代読んだ「堀田良衛」の著作で日本の商社丸は、南洋材を切り倒して熱帯雨林を破壊しているというという文章があって、私は今までそう信じていた。
しかし氏の見解は違っていた。それは長いこと調査に通っての結果である。
また問題は焼き畑そのほかの火入れにあるという。すべてが焼き尽くされた跡地では、裸地から土地本来の熱帯雨林に再生するには、300年、500年かかるかもしれないという。
その地で氏は熱帯雨林の再生にも取り組んでいるのだ。
上田市の日置電機さんで、その植林をするという話を木村氏からきいた。
私は長いこと、この佐久で資源としての山をみてきた。人の手が入った山がどんなにも、もろいものかも知り尽くしている。
古来この地で生えてきた木の山に戻すことは、災害にも強いだろう。しっかりと地中深く根をはった木は、台風にも地震にも強いはずだ。唐松のように根を深くはらない木をみているだけに余計そう思う。
これからの一番の問題は資源としての木だ。外国からの木材の輸入にはもう頼れない時代が来ている。その時に今までのような家づくりをし続けていいものだろうか。
少なくとも、木材が循環する50年~60年もつ家づくりをしなければなるまい。
安ければいいという安易な選択は、資源が許してはくれまい。
長くなりすぎたので、続きはまた。
依田 美恵子