院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

「高速増殖もんじゅ」の点検漏れ

2013-07-17 05:12:08 | 技術
 「高速増殖炉もんじゅ」の点検漏れが1万5000ヵ所見つかったという。後日、さらに3000ヵ所も点検漏れが見つかったと報道される。われわれは「なんと杜撰な」と思う。

 話は医療費の保険請求に飛ぶが、3万件の不正請求があったなぞと健康保険支払基金は発表する。この「不正請求」の大部分は、本当の不正請求ではなく、形式論である。

 たとえば、糖尿病で長らく通院している人がいるとする。あるとき、彼が便秘になれば、便秘薬が処方される。そのとき、医者は「便秘症」とカルテの病名欄に記入しなければならないのだが、うっかり書き忘れることがある。

 「便秘症」という記載がないと、支払基金は「病名が書き落とされている」とは言わない。そうではなくて「便秘症でもないのに便秘薬代が請求されている。これは不正請求だ」と鬼の首でも取ったかように言うのだ。

 マスコミは知ってか知らでか、そのまま報道する。国民は「そんなにたくさん不正が行われているのか」と医療に不信感をもつ。

 「高速増殖炉もんじゅ」のような精密機械に1万5000件もの点検漏れなぞ、ありうるのだろうか?「便秘薬代の不正請求」と同じような形式論ではないのか?

 もしかしたら、1万5000件という発表は、「もんじゅ」のメンテに不信感を抱かせるための、ためにする発表かもしれない。

混合診療禁止の長所

2013-07-16 05:15:49 | 医療
 例えばの話だが、「リチウムイオン水」という何の役にも立たないが別に害になるわけでもない点滴液があったとする。

 中味は生理的食塩水のようなもので、点滴したからといってどこが良くなるわけでもない。だが、このような、おまじないのような溶液の「効能」を信じている医者は案外いるのだ。

 「リチウムイオン水」はよく効くと信じているから、その医者は善意で患者に打つことを勧める。でも、1本1万円もする。

 何かの感染症で抗生物質を使ったとする。抗生物質の値段が5千円だとすると、健康保険の3割負担で1500円で済む。上述のような医者は本当は「リチウムイオン水」を使いたい。儲けたいからではなくて、患者のためになると信じているからだ。

 ところが、「リチウムイオン水」には健康保険が適用されていない。だから、どうしても使用したければ、抗生物質にも保険を適用してはならない。つまり、患者に1500円ではなく100%の5千円を支払わせなくてはならない。そうしてからでないと「リチウムイオン水」は使えない。

 以上を「混合診療の禁止」という。

 「混合診療の禁止」の是非については、賛成派反対派がいて、さまざまな論議があるけれども、少なくとも「リチウムイオン水」が無際限に使用されるのを防いでいることは確かである。

BBCの良質な番組

2013-07-15 05:01:43 | 教育
 イギリスの放送局BBCは、とてもよい番組を作る。問題の掘り下げ方が他局よりも深く、同局の科学番組やドキュメンタリーを私は好んで見ている。

 ところが、このたびの「人類・遥かなる旅路」にはがっかりさせられた。

 1万5000年前に、地球は寒冷期になって人類の住める地域が南側に狭められ、狩猟採集がままならなくなったので、仕方なく人類は農耕を始めたと語られていた。文化変容を目的論的に説明しているのだ。

 これは俗説であって、ウサギの耳が長くなったのは遠くの物音を敏感に聞くためで、これによりウサギは外敵の接近をいち早く察知できるようになった、という説明の仕方と同じである。本当は進化はもっと複雑な過程である。

 またこの番組では、初めのうち人類は野生の植物を採集していたが、効率が悪いので一か所で栽培するようになったのが農耕の始まりである、という通俗的な解釈をしていた。

 農耕の発明には分かっていない部分がたくさんある。本当は野生の植物を単に一か所に集めたわけではない。それより先に、品種改良がおこなわれていた。実際、農耕遺跡から出土する植物は8倍体16倍体であって野生の品種ではない。栽培されていた植物は、すでに味も収量も格段に改善されていたことが分かっている。

 BBCともあろうものが、こんなに杜撰な説明を子供たちに吹き込んではいけない。子供たちの思考の発達をストップさせてしまうだろう。

 BBCには分からないことは分からないと言い切る王道を歩んでほしい。

漢方薬を疑う

2013-07-14 05:27:37 | 医療
 漢方薬は本当に効くのだろうか?生薬で効くものは確かに効く。センナなどは下剤として製剤化されている。

 漢方薬は多数の生薬を料理のレシピのように配合している。あのような配合でなくてはいけないのだろうか?たったひとつの生薬を加えても外してもいけないのだろうか?漢方薬を料理とみなすなら、一剤も足したり外したりできないだろうけれども。

 中国4000年の歴史と言うが、漢方は実は江戸時代に日本で大成されたもので、中国産ではない。漢方薬は厳密な効能テストが行われていない。昔から生き残ってきたという理由で臨床試験を回避しているけれども、昔とは江戸時代に過ぎないということを多くの人は知らない。(4000年前からだと思いこんでいる。)

 医療現場では漢方薬の粉末が用いられる。漢方薬の作用を料理のような効能だと考えれば、粉のまま飲むのは、粉末スープを粉のままで飲むのと同じで、味や香りというせっかくの効果がなくなるのではないか?

 20年ほど前、小柴胡湯の二重盲検試験が行われているとのうわさがあったが、試験の結論はついに発表されなかった。たぶん、有効という結果が得られなかったのだろう。それならそれで、結果を発表してほしかった。

 漢方薬は、常にあいまいな立場に置かれてきた。そこには利権や政治の力が働いているような気がしてならない。

京都府医大データねつ造事件の謎

2013-07-13 05:09:08 | 医療
 このたびの京都府医大のデータねつ造問題にはいくつかの謎がある。

 まず発端だが、問題の「キョウトハート試験」の原著論文の疑問点を指摘したのは京大病院の医師で、その疑義はランセット誌に掲載された。ランセット誌は超一流の医学雑誌である。

 「疑義」がランセット誌に載せられたということは、原著論文もランセット誌に載ったと想像される。また、「疑義」のほうも、ランセット編集部はそれを「もっともだ」と思ったから掲載したのだろう。そこでまず第一の疑問だが、一読者が奇妙と感じるような論文をなぜランセット誌の一番最初の査読者が見破れなかったのかということである。

 次に、京都府医大の調査で、データのねつ造があったと報道されているが、京都府医大の調査委員会はなぜデータのねつ造が分かったのだろうか?これはカルテだけをいくら調べても分かるはずがないことである。

 なぜかと言えば、薬剤の臨床試験には二重盲検法という手技が用いられるからである。二重盲検法とは、その薬が本物の薬であるかプラセボー(偽薬)であるかは患者のみならず、投与した医者にも分からないようにデザインされた方法である。医者のほうにも薬効評価の予見を与えないようにするためである。

 (ただし、実際の臨床試験では対照群にプラセボーを投与することは倫理面から難しく、ふつうは評価の定まっている別の薬を対照薬として用いる。)

 そのため、カルテにはその患者が本物の薬を投与されているのか、対照薬が投与されているかは、記載がいっさいない。

 カルテ記載に問題があることを証明するには、元締めが持っている「一覧表」(これにはどのカルテに本物の薬が割り当てられ、どのカルテに対照薬が割り当てられているが書かれている)が必須である。京都府医大の調査委は、この「一覧表」をどうやって手に入れたのだろうか?

 データのねつ造は、この「一覧表」を持っている人にしかできない。だから、ねつ造が行われたのなら、調査委は「一覧表」を取り寄せてカルテを調べるという面倒な作業をしなくても、「一覧表」を持っている人間を問い詰めれば済むはずだ。繰り返すが、カルテには何も証拠は残っていない。不正ができる人物は「一覧表」を持っている元締めとその取り巻きだけである。

 と言うことは、元締めならねつ造データをでっちあげることができる。もっと極端なことを言えば、元締めは面倒な臨床試験なぞいちいちやらなくたって、論文を書くことができるのだ。

 こうした臨床試験の仕組みの中で、京都府医大の調査委はいったい何を調べたのか?本当はそれが一番大きな謎である。

看護師不足につけこむ業者

2013-07-12 05:21:25 | 医療
 今、大変な看護師不足である。開業医のところには看護師がまったく来ない。それなのに、例年になく「看護師は要りませんか?」というダイレクトメールが毎日何件も来る。これは何故か?

 医療とはなんの関係もない山師のような業者が、金の匂いを嗅ぎつけて看護師を斡旋しているのだ。業者は看護師を開業医に紹介して大枚の紹介料を取る。

 ところが、紹介されてきた看護師は3か月きっかりで辞めてしまう。どうしてこのような現象が起こるのだろうか?

 業者は、3か月勤務したらボーナスを10万円出すと言って看護師を募集する。応募した看護師は3か月だけ勤めて業者から10万円もらう。辞めてまた別の開業医のところへ行く。ここも3か月勤めて辞めて、また業者から10万円もらう。

 看護師不足をよいことにして、こうやって稼ぐ業者がいるのだ。もっとも、これが自由主義経済というもので、不足している技能が高額になるのは当然である。

 今のところ、賃金が高騰した分を業者が吸い上げて、涙金を看護師に落とす仕組みになっている。本来なら、全部を看護師が持っていかなくてはならないところである。

 これを解決するには、開業医が業者に渡す金を看護師本人に全部差し出せばよい。そうすれば、看護師に渡り鳥のようなみじめなことをさせなくてもよくなるのだ。

(開業医がそうしないのは、一度高くなったら賃金は下げられないという考え方に縛られているからだ。そこを業者に狙われている。この際、開業医も看護師も既成概念を捨てて、賃金は下がりうると割り切るべきだ。そうしないと、医療に何ひとつ貢献しない業者だけを太らせることになる。)

死因は本当に熱中症か?

2013-07-11 05:21:18 | 医療
 知り合いに90歳で元気な男性がいた。ある日、彼は筍を掘ってくると言って家を出て、なかなか帰ってこなかった。家人が裏山に見に行くと、彼は鍬をもったまま死んでいた。

 まさにピンピンコロリだった。誰の世話にもならず、誰にも迷惑をかけず、そしてなによりも全く苦しまずに彼は逝った。人々は彼の死を理想的な死に方だと讃えた。

 医者は死亡診断書に、死亡原因を心不全と書いたが、解剖したわけでなし、本当の死因なんて分からない。脳卒中かもしれないし、大動脈瘤破裂かもしれない。彼の死は原因の特定を要求する性質のものではなかった。

 暑い日が続いている。報道では本日、熱中症で運ばれた人数が何百人で、うち2人死亡したと伝えられた。(だから、熱中症には気をつけましょうというわけだ。)

 死亡した1例は、88歳の女性で、あぜ道で倒れているところを発見された。もう1例は92歳の男性で、ビニールハウスの中で倒れているところを発見され、病院に運ばれたが死亡が確認された。死因は熱中症とみられるとアナウンサーは言っていた。

 ホントかよ、と私は思う。88歳や92歳の老人が急死しても、それは何の不思議もないことなのだ。たぶん、死因の究明なぞ行われていないだろう。それを、その日が暑かったからというだけで、死因を熱中症にしてしまうことに問題はないのだろうか?

 日本程度の暑さで、熱中症、熱中症というのは考えものである。それなら、アフリカやアラブやインドでは、もっと熱中症で死ぬ人が多いだろうに、そのような情報はない。

 日本の世の中は、人は歳を取ったら死ぬものだという現実を忘れているのではないか?

就職活動の解禁日後ろ倒し

2013-07-10 04:55:24 | 社会
 就職活動の解禁が3年生の3月に後ろ倒しされることになった。

 私が医学生時代、医学部は6年制だから、医学部ではない友人のF君やY君が私より2年早く就職することになった。

 名古屋の私大に行っているF君とは同じ下宿だった。彼はとにかく麻雀とアルバイトばかりしていて、いつ大学に行っているのだろうかと不思議に思った。

 Y君は東大生だったが、私は名古屋にいたから東京でのY君の生活ぶりは知らなかった。Y君はさしたる就職活動をすることもなく、教授の紹介ですんなりと有名な研究所に採用された。

 一方、名古屋のF君は地元の大企業を受けた。合格発表の日には下宿に電話がかかってくるというので、当日F君はまんじりともせず電話を待った。私はイライラしているF君に付き合った。

 その日、ついにF君には電話がかかってこなかった。F君は落ちたのである。要らない者には連絡さえよこさない企業の冷酷さにぞっとした。

 その後、F君は受験した会社すべてに落ちた。かける言葉もなかった。東大生のY君は受験もせずに受かったのに、F君は全部ダメ。世の中の非情さを感じた。

 平成27年から就職活動解禁が後ろ倒しされるというが、解禁までにY君のように決まっている学生はたくさんいるだろう。何のための後ろ倒しなのだか、私には意味が分からない。

賞状、感謝状の価値

2013-07-09 05:18:06 | 文化
 田舎の古い民家には、カモイに賞状、感謝状が飾ってあった。

 現在、飾る風習はほとんどない。

 「あんな紙だけのものを貰ってなにが嬉しいのだろうか」という考えの人が多くなったのだろうか?

 行きつけの民宿のカモイには、そこの親父さんがもらった人命救助の感謝状が飾ってある。親父さんが、森の中で弱っていた人を救出し、背負って森を出てきたときのものだ。

 そこの親父さんも昔は若かったんだなぁ、という感興を呼ぶ。だから、感謝状を飾るのはよいことだと思う。

(DJポリスが警視総監賞をもらったのも、運転手が失神したバスを止めた客が表彰されたのも、いい話ではないか。)

豊橋の安居酒屋

2013-07-08 05:15:06 | 食べ物
 テレビで俳人の吉田類さんが案内人をしている「酒場放浪記」という番組を見ているとは、いつぞや書いた。毎週月曜日の夜9時から、BSのTBSでやっている。すべて再放送だ。

 吉田さんが安居酒屋に行って、大したことのない料理に「さすがマスター、本場仕込みだ」なぞと世辞を言って、つまらない料理をさもおいしそうに食べる、ゆるい番組である。どうしても見なくてはならない番組ではない。だが、最後に俳句で締めるから、番組全体が俳文のようで、なんとなく見てしまう。

 同じようなことを豊橋で実行しようとすると、そうはいかない。中心地からちょっと離れた居酒屋は常連のたまり場になっている。そんなところに私が行くと、異物でも入ってきたように好奇の目で見られる。そもそも常連たちは互いに近所で、ふだんから繋がりがある。

 私が一人で黙って呑んでいると、常連たちはたまらなくなって、「どこの人?」、「どこに住んでいるの?」と「身元調査」が始まる。

 そのようなわけで、豊橋では「酒場放浪記」を再現するのが難しいのである。

俳句の韻律談義

2013-07-07 05:11:00 | 俳句
 過日、私的な俳句のサークルで、次のようなやりとりが行われた。俳句の韻律にかかわる大切な論議である。

私:伝統俳句協会の雑誌に投句した私の「新緑の上(へ)に大仏が頭だけ」という句が、「新緑の上(へ)に大仏の頭のみ」と添削されました。格調は高くなったのですが、滑稽味が薄れた感じがします。みなさんはどう思われますか?

A子さん:金子兜太氏の現代俳句では、伝統俳句ほど韻律を重視していません。作者独自の発想、人生哲学が求められます。(だから、「だけ」か「のみ」かはあまり問題にはならない。)

B子さん:「だけ」のほうが面白さがリアルに伝わってきます。「のみ」ほうはきれいですが、どこかひと事的な感じがします。私は「だけ」のほうが好きです。

C子さん:私は「だけ」を使うことを思いつかないほどに「のみ」に慣れてしまっています。柔軟性に欠けていると自戒します。

D男さん:私も「のみ」のほうが格調が高いと思います。それは「上(へ)に」という言い方をしているからです。「だけ」を残すのなら、普通に「上」を「うえ」と読んで、「新緑の上(うえ)大仏が頭だけ」としたらよいと思います。躍動感と滑稽味は、そうしたほうが断然上だと思います。

 以上のような論議は、俳句に興味がない方にはちんぷんかんぷんかも知れない。俳句には、このように微妙な表現の違いにこだわる世界があるのだ、ということを知っていただければ十分である。

今、麻雀人口はどれほどか?

2013-07-06 05:00:21 | レジャー
 現在の大学生は麻雀ができるのだろうか?

 私の学生時代は多くの学生が麻雀をやっていた。学生運動でストを打っては、授業をつぶして麻雀をやっていた。あのころの学生のストは集団サボタージュにすぎなかった。(私自身はといえば麻雀のルールをまだ知らなかった。)

 精神障害者のリハビリ施設では、利用者とよく麻雀をやった。お金を賭けないので面白さに欠けるため、点数を長期間に渡って競い、少しでも面白くしようとした。

 その結果、麻雀は運だけではなく、技術が大いにものを言うことが分かった。何か月も点数を付けていると、運はみんなに均等に回ってくるから、そこに出てくる差は実力の差に他ならなかった。

 4人集まると麻雀に行こうという時代だった。今はどこに遊びに行くのだろうか?

エジプトのクーデター

2013-07-05 04:11:17 | 歴史
 このたびのエジプトの騒乱や、クーデターは起こるべくして起こったと、ムバラクが排除された当時から考えていた日本人は多いに違いない。私もその一人で、下の記事に予想を書いておいた。

 あまり報道されていないが、チュニジアやリビアも同じように騒乱に見舞われているだろう。もしくは、今後そうなるだろう。

「エジプトで暴動起こる」(2011-11-21)
「各国各地の騒乱」(エジプトを中心に)(2011-11-23)
「ジャスン革命の後」(2012-02-18)
 

IOCはなに様だと思っているのか!

2013-07-04 05:57:43 | スポーツ
 IOCに対する東京オリンピックのプレゼンのために、猪瀬都知事や麻生元総理がスイスのローザンヌへ行っている。猪瀬さんはジョギングしたりしてパフォーマンスに必死である。そこまで卑屈になる必要があるのか?これでは、まるで新卒者の就活である。

 識者はロビー活動が必要だという。公式のプレゼン以外に、そんな活動が必要なのか?IOCはそのような不明朗な活動を断るべきである。

 IOCのメンバーが来日した時には、安倍総理大臣が歌まで歌った。それに対してIOCは恐縮の意を示さなかったどころか、言及さえしなかった。

 IOCはなに様だと思っているのか!

一般人に微積分学は必要か?

2013-07-03 05:24:52 | 教育
 私が卒業した大学の経済学部の入学試験には数Ⅲがあった。数Ⅲには微分積分学が含まれる。

 最新の経済学を見ると数式の羅列である。これらを理解するには微積分の知識は不可欠だ。

 だが母校の経済学部からの就職先は、トップクラスの就職先はトヨタ自動車で、トヨタで彼らが微積分を駆使しているとは思えない。

 普通の売買契約や生産管理をやるのなら、商学部のほうが有用なのではないか?

 もっとも医学部や薬学部の入学試験にも数Ⅲがあった。だが、いまだかって仕事に微積分を使ったことはなかった。何かの役に立った記憶はない。

 われわれにとっての微積分学は、教養として存在価値があるのだろうか?教養とは何だろうか?

 作家の曽野綾子さんが「昔習った2次関数は生涯で何の役にも立たなかった」と言ったのに対して、ある数学者が「曽野さんの論理的な思考に役立っているはずだ」と反論していた。私は数学者の論に賛成である。