Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

夏みかん

2014年04月13日 | 
 萩の夏みかんの生産は、明治期になって禄を失った武士を救済するために始められた県の事業である。外国からグレープフルーツなどが入ってくるまでは萩の夏みかんはかなりの生産量を誇っていたが、今は果物そのものを食べる人が減り、加工品の開発などでほそぼそと生産が続けてられているという(萩市博物館で説明員から聞いた内容の受け売りですが)。
 確かに果肉だけをみればグレープフルーツの方がジューシーだし、食べがいはあるだろう。しかし、僕は夏みかんが好きである。なんというか、グレープフルーツの果汁にあふれた果肉と違って、噛んだときにサクッとした食感と、まさに甘酸っぱさはやはり夏みかん独特のものだ。
 写真の夏みかんは、一つ前のブログで書いた萩で木からとったものである。一つ食べてみたがみずみずしく、それはそれは美味しい夏みかんだった。味覚もまた記憶と結びつく。4月初頭の萩は夏みかんがたわわとなる「That's 萩」というような風景で、それはそれで萩らしくてよかったのだが、この味覚が加わわることで、旅行した萩の記憶は、脳裏のより奥深い場所に収納されたようだ。

旅先でのおもてなし

2014年04月12日 | 
「庭になっているミカン、好きなだけ切って持って帰りなさい。南側の実が色づいていて甘いからね。」
木戸孝允邸を見学した帰り、受付の人から突然、長い鎌を渡された。
 「引っかけて落とすのよ」
と言って、右手の指を鎌に見立てて、ミカンを落とす方法を教えてくれた。そういうと彼女はもう仕事に戻っていった。
 しかし、言葉で言うのはたやすいが、やってみるとなかなかたいへんである。力加減がわからないし、下手に落とそうとすると果実に傷をつけてしまうのだ。しかも棒が長いのでひじょうに操作しにくいのである。爪先立ちしてがんばるのだがなかなかうまくいかない。こうなると親のメンツがたたぬもの。もう真剣になって美味しそうなミカンを狙った。結果的に四つ落として息子と二つずつ持ち帰ったのだった。
 それにしても萩の人々はなぜかどこにいってもやさしかった。私たちをゲストとして本当に快く迎えてくれたし、萩は素敵な所だ、なんて押し売りを絶対にしなかった。時間があったら「○○にいってごらん」といってニコリと笑う。そんなこと言われたら行きたくなってしまうもので、でもそんな場所はほとんどどこに行っても人はいなくて、静かで素敵な場所ばかりだった。
 ホストとして、あくまでもゲストの自主性にまかせながらも、適格なアドバイスをする人々。観光に「MUST」ってないんだなと思う。ミカン狩りをさせてくれた女性も、萩と夏みかんを強調することもなく、しつこく私たちに方法を教えることもない。あとはあなたたちの好きなようにね、という観光客へのアドバイス、実は無責任なようで、それが最高のおもてなしなのかもしれない。その自主性こそが、旅行ガイドの写真の確認作業にとどまらない、旅行者一人ひとりが作り出す旅行の記憶を生むのだろう。

萩焼の一合徳利とぐい飲み

2014年04月11日 | バンバン!ケンバン♪はままつ
 素人よりは多少詳しい程度の趣味の領域であるが、日本の陶器が好きである。陶器が好きな父の影響でもあるし、中学生の頃、司馬遼太郎の『故郷忘れじがたき候』を読んだこともまた「焼き物」に関心を持ったきっかけかもしれない。
 「好きだから」といっても別に収集しているわけではない。なぜなら、実家に行けば嫌というほど日本各地の陶器を見ることができるからだろう。それでも日本酒を飲むための徳利とぐいのみは、いくつか父のコレクションを譲ってもらって、浜松の食器棚によく見えるように並べて、時々、使うようにしている。やはり使うから面白い。お酒が入るとぐいのみの中の色具合や光り具合が変わってまた面白いのである。
 萩に行って、初めて自分で徳利とぐい飲みを一つ買った。あまりたくさん飲めないので一合徳利である。なかなか小さいものがなくて数か所を探してやっと見つけた。ぐい飲みとは窯も違うので雰囲気は異なるが、まあ、普段使いである。作家ものではない分、気軽に日々の生活の中で使って楽しもうと思う。使うたびに、それを買ったときの楽しい記憶だけが蘇るものだからね。

えっ、何?

2014年04月10日 | 家・わたくしごと
 バリから待ちに待ったものが届きました。
「さて、なーんだ?」
 わからないよね。わかるはずないよね。わかったら、この業界の人間間違いなし!
 これはバリ語で「シギ sigi」といいます。バリ語の辞書を引くと「ロウソクなどの芯」と書かれていますが、このシギはロウソクの芯ではなく、火を使うバリのワヤンのヤシ油を燃やすための芯です。すごい大きさでしょう?
 実は4月27日、名古屋で火を使ったワヤンを上演します。一つの物語をジャワのワヤンと合同で上演するので、バリのワヤンの上演時間は1時間足らずですが、それでも火を使うために大がかりなセットが必要になります。たっぷりヤシ油をいれたツボを鎖でつりさげるので、それだけの枠組みなどが必要になってくるからです。
 この芯は、どうしても自分で作ることができません。まず太く、やわらかい木綿の紐が必要なのですが、それが日本で手に入りません。手に入ったとしても巻き方がなかなか難しい。硬さとか、長さとか、これまたたいへん。一度、わが一座の何人かでバリに行って習ったこともあるのですが、やはり今回はバリの一座の方に作ってもらうことにしました。これなら安心です。
 ということで着々と舞台装置の準備は進んでいますが、さて、どんな風に話を短くしましょうかね。やっぱりデレムのバリスはないとなあ…。いっそのこと、バリス終わった後、サングトが出てきて
「兄さんがこんなバカなことをしている間に、ニワタカワチャ様がアルジュナに殺されちゃったよ」
って言って、ぼくの担当場面が終わっちゃったりしてね。

 公演の詳細はこのブログでご覧ください。

萩のこと

2014年04月08日 | 
 先週、山口県の萩に息子と二人で数日滞在した。私は中学生の時に萩を訪れて以来、もう4,5回目の訪問である。最初は幕末史への興味から訪れた萩だったが、その後、その地が母方の祖母の故郷であることを知ると、別な意味で萩が身近な存在になったのだった。
 東京で生まれ、すでに父方、母方の祖父母が両方とも東京にいた私にとっては、いわゆる田舎の風景が広がる絵に書いたような「故郷」がなかった。子どものころは夏休みに田舎に帰る友人たちが無性に羨ましかったし、東京から「旅行」という手段でしか脱出できない自分がなんとなく哀れな気がしたものだ。
 それが、「お墓」という存在とはいえ、歴史の街「萩」の城下町の武家として、自分と血のつながった人々がかつて住んでいたことを知った時は飛び上がるほどの驚きと喜びを感じたものだ。しかも曽祖父は一族の記録を文字にして残していたために、母系とはいえ、その出自を漠然と追いかけることができ、幕末史の中では名のない一武士として毛利家に仕えていたと思うだけで胸が高鳴った。
 僕はそんな出自を正しく息子に正確に話すことはできないが、少なくても自分たちの血の中には長州藩の氏族の血が流れていることを墓の前に立つことで伝えたつもりだ。彼はそれをどのように感じたのかはわからない。口数の決して多くない息子は、そんな萩に来たことをこの桜のトンネルの風景を見たときに初めて口にした。「萩に来てよかった」と。桜は彼に何を語ったのだろうか?もちろん僕はそのことについて何も聞かなかったし、聞くつもりもなかったが…。