脱官僚の政治主導、天下り禁止をテーゼ(these)とする民主党政権が、民営化
された日本郵政の社長に元大蔵官僚を起用する。
政府は、元官僚とはいえ、10年以上も民間人として活動して、政府の方針に
「ふさわしい能力の人物」だと評価している。
官僚にも、民間人にも、有能な人材は余りある。脱官僚、天下り禁止というのは
、個人の能力の基準にかかわらず、政治主導の「システム」として、官僚支配体制
に意思決定をゆだねることのない基準を掲げたものと、従来の民主党の対応から理
解していたが、そうではなかった。
脱官僚(官僚支配体制からの脱却・天下り禁止)というのは、個人的資質、能力
の有無が基準ということになれば、テーゼも絵に描いた餅だ。
これに批判的な立場からは、天下りの繰り返し、「渡り」だと、政府の方針の形
骸化を批判。
どちらも、どちらの、論点、ポイントずらしの、ご都合主義が透けて見える。脱
官僚、天下り禁止の「言葉」が独り歩きするのは、どうでもいい。それが「テーゼ
(these:命題)」となれば、問題は別だ。
官僚にも、有能な人材はある。官僚が政策の意思決定にかかわることの弊害は、
その準拠する責任感にある。
国民の意思または国民全体の共益性に束縛されない自己中心的「セクショナリズ
ム(sectionalism:派閥主導支配主義)」だ。
国民に選出された議員とのエレクション(election:選ばれ方)の違い。
脱官僚とは、個々の個別的な能力の向き、不向きの問題ではなく、組織的(sectionalism)
インバランス(imbalance:平衡を失った組織)の支配体制を排除することがテーゼ
のはずだ。
個別的な(separate)人物評価は、ご都合主義の言い訳にすぎない。官僚にも、
民間人にも、個人的資質、能力としての適格者はいる。
脱官僚、天下り禁止の、個別的評価でない本来の包括的、機能的なテーゼとして
の整合性、政治哲学を示すべきだ。
民間は、民間にまかせたらいい。
ゆるぎない政治理念(哲学・テーゼ)、政治主導の政策実行が国民の支持、信頼
に応える唯一のスタンスだ。
もとより、現在、就任に前向きな人には何の瑕疵(間違い責任)もないわけで、
こういう人も巻き込むテーゼの一貫性のなさは、政治の非劇だ。
された日本郵政の社長に元大蔵官僚を起用する。
政府は、元官僚とはいえ、10年以上も民間人として活動して、政府の方針に
「ふさわしい能力の人物」だと評価している。
官僚にも、民間人にも、有能な人材は余りある。脱官僚、天下り禁止というのは
、個人の能力の基準にかかわらず、政治主導の「システム」として、官僚支配体制
に意思決定をゆだねることのない基準を掲げたものと、従来の民主党の対応から理
解していたが、そうではなかった。
脱官僚(官僚支配体制からの脱却・天下り禁止)というのは、個人的資質、能力
の有無が基準ということになれば、テーゼも絵に描いた餅だ。
これに批判的な立場からは、天下りの繰り返し、「渡り」だと、政府の方針の形
骸化を批判。
どちらも、どちらの、論点、ポイントずらしの、ご都合主義が透けて見える。脱
官僚、天下り禁止の「言葉」が独り歩きするのは、どうでもいい。それが「テーゼ
(these:命題)」となれば、問題は別だ。
官僚にも、有能な人材はある。官僚が政策の意思決定にかかわることの弊害は、
その準拠する責任感にある。
国民の意思または国民全体の共益性に束縛されない自己中心的「セクショナリズ
ム(sectionalism:派閥主導支配主義)」だ。
国民に選出された議員とのエレクション(election:選ばれ方)の違い。
脱官僚とは、個々の個別的な能力の向き、不向きの問題ではなく、組織的(sectionalism)
インバランス(imbalance:平衡を失った組織)の支配体制を排除することがテーゼ
のはずだ。
個別的な(separate)人物評価は、ご都合主義の言い訳にすぎない。官僚にも、
民間人にも、個人的資質、能力としての適格者はいる。
脱官僚、天下り禁止の、個別的評価でない本来の包括的、機能的なテーゼとして
の整合性、政治哲学を示すべきだ。
民間は、民間にまかせたらいい。
ゆるぎない政治理念(哲学・テーゼ)、政治主導の政策実行が国民の支持、信頼
に応える唯一のスタンスだ。
もとより、現在、就任に前向きな人には何の瑕疵(間違い責任)もないわけで、
こういう人も巻き込むテーゼの一貫性のなさは、政治の非劇だ。