(1)きのうのプロ野球で、セカンド後方に高く上がった打球を後ろ向きダイビングで捕球しようとして、テレビのリプレイを見ると一旦グラウンドにバウンドしたボールのはねかえりをグラブに収めたように(かなり高い確率)見えたプレイを、一塁審判は直接捕球したとアウトの判定にした。
一塁審判と同じ視野、視界から見ていたはず(つまり、打球がセカンドプレーヤーの影に入っていたと見られる)のホームチーム(一塁側ダックアウト)の監督が抗議に走る。やり取りはわからないが、アウトの判定は覆(くつがえ)られない。
ホームチームの代表は、判定の正確性向上を求める要望書をセリーグ連盟に提出した。
(2)限られた種目(フェンシング、陸上の一部、スピード系は機械判定)以外のスポーツは「人(審判)」が「裁く」。一定の法則はあるのだろうが、審判判定能力に「個人差」はあり、しかしその「個人判定」がゲーム裁定(判定)のプライオウリティ(priority)として、前提として成り立つのがスポーツでもある(secret principles of game judgment)。
そうした考え、パラダイム(paradigm)の象徴として、米大リーグの「審判員(umpire)」のスタンスがある。原則として一切の抗議は認められずに(テレビを見る限りでは、それでも一応抗議のアピールはするようだ)即、退場措置に結びつくことが多い。
「人」が裁く「許容量」の中に、「人は間違いを起こすもの」との寛容な共有常識がある。プロフェッショナルとなれば、絶対的なゲーム成立のプライオウリティ(priority)を許容し前提としてわかったゲーム展開を組み立てるのは当然だ。
往々にして監督の抗議は、チームまたは関係プレーヤーを擁護して鼓舞する意図があると聞くので、それまでのことであって、チーム代表がプロ野球連盟に要望書を提出するようなプロ野球の基本理念を否定するような事態ではないはずだ。
野球の基本理念(「人」が裁く)からすれば、抗議はパフォーマンスにすぎない。「人」が裁く野球の基本理念から、「故意」でない限り「判定」は変えてはいけないし、変える必要もない。
(3)今回のケースも、かってのように外野審判(線審)が居れば、正面からボールを見ることのできるプレーで、より正確な判定につながったといえる。審判の人材不足、またグラウンドのクリアーカット(clear cut すっきり観)を演出するためのゲーム審判員の削減だ。
そのため判定には問題(審判の判定する位置)も指摘されて、さすがにきわどいホームランの判定(影響力が大きい)には映像判定による再確認も取り入れられた。これも野球の基本理念(「人」が裁く)からすれば必要もないことだ。「人(審判員)」が裁く判定が基本理念として成立しているスポーツだ。
しかし、そもそも「人」が裁く不安定、不精度、そもそも見えない死角のあることを「許容」することがプライオウリティで成り立つスポーツのこと、その「人」の能力範囲の許容量の中で「それも人生」とゲームを楽しむことが、スポーツの「懐(ふところ)の深い、偉大」なところでもある。
「故意」があってはもちろん成り立たないスポーツだが、審判スキル、判定の正確性を要望書を出してこれ以上とやかく取り上げる問題ではない。
(4)もうひとつ「人」が「人」を裁く裁判制度ではどうか。こちらの方は合議制(多数決)以外は別の信義上の確たる法則もなく、しかし「許容量」などあってはならずにやはり「人」が「人」を裁く限界、不条理がついてまわる。
一塁審判と同じ視野、視界から見ていたはず(つまり、打球がセカンドプレーヤーの影に入っていたと見られる)のホームチーム(一塁側ダックアウト)の監督が抗議に走る。やり取りはわからないが、アウトの判定は覆(くつがえ)られない。
ホームチームの代表は、判定の正確性向上を求める要望書をセリーグ連盟に提出した。
(2)限られた種目(フェンシング、陸上の一部、スピード系は機械判定)以外のスポーツは「人(審判)」が「裁く」。一定の法則はあるのだろうが、審判判定能力に「個人差」はあり、しかしその「個人判定」がゲーム裁定(判定)のプライオウリティ(priority)として、前提として成り立つのがスポーツでもある(secret principles of game judgment)。
そうした考え、パラダイム(paradigm)の象徴として、米大リーグの「審判員(umpire)」のスタンスがある。原則として一切の抗議は認められずに(テレビを見る限りでは、それでも一応抗議のアピールはするようだ)即、退場措置に結びつくことが多い。
「人」が裁く「許容量」の中に、「人は間違いを起こすもの」との寛容な共有常識がある。プロフェッショナルとなれば、絶対的なゲーム成立のプライオウリティ(priority)を許容し前提としてわかったゲーム展開を組み立てるのは当然だ。
往々にして監督の抗議は、チームまたは関係プレーヤーを擁護して鼓舞する意図があると聞くので、それまでのことであって、チーム代表がプロ野球連盟に要望書を提出するようなプロ野球の基本理念を否定するような事態ではないはずだ。
野球の基本理念(「人」が裁く)からすれば、抗議はパフォーマンスにすぎない。「人」が裁く野球の基本理念から、「故意」でない限り「判定」は変えてはいけないし、変える必要もない。
(3)今回のケースも、かってのように外野審判(線審)が居れば、正面からボールを見ることのできるプレーで、より正確な判定につながったといえる。審判の人材不足、またグラウンドのクリアーカット(clear cut すっきり観)を演出するためのゲーム審判員の削減だ。
そのため判定には問題(審判の判定する位置)も指摘されて、さすがにきわどいホームランの判定(影響力が大きい)には映像判定による再確認も取り入れられた。これも野球の基本理念(「人」が裁く)からすれば必要もないことだ。「人(審判員)」が裁く判定が基本理念として成立しているスポーツだ。
しかし、そもそも「人」が裁く不安定、不精度、そもそも見えない死角のあることを「許容」することがプライオウリティで成り立つスポーツのこと、その「人」の能力範囲の許容量の中で「それも人生」とゲームを楽しむことが、スポーツの「懐(ふところ)の深い、偉大」なところでもある。
「故意」があってはもちろん成り立たないスポーツだが、審判スキル、判定の正確性を要望書を出してこれ以上とやかく取り上げる問題ではない。
(4)もうひとつ「人」が「人」を裁く裁判制度ではどうか。こちらの方は合議制(多数決)以外は別の信義上の確たる法則もなく、しかし「許容量」などあってはならずにやはり「人」が「人」を裁く限界、不条理がついてまわる。